4.江戸時代5.在銘請来仏江戸時代になると,福岡に佐田文蔵系譜が元禄以後近代まで継続して把握でき,宇佐・国東には宇佐宮社僧や神官らの仏師集団が少しづつ銘文確認によってその姿をみせる。肥後人吉では緒方新八郎大神惟実,緒方大学らが判明している。近世後半の各地の単発的な仏師の造仏修理の墨書採録を,郷土の歴史に位置づけを提示しながら説くべきであろう。最後に,九州における中国や朝鮮半島の将来在銘仏について,報告しておこう。朝鮮半島の高麗仏については,対馬豊玉町小綱観音寺の銅造観音菩薩像は像内から発見された結縁文によって,天暦三年(1330)忠清道瑞山郡の浮石寺において開眼供されたことがわかる。韓国でも高麗仏の貴重な規準作となっているものである。対馬・壱岐には,中国,朝鮮半島からもたらされた仏像その他が存在することはよく知られているが,対馬の北部,上対馬町佐護から北魏仏が発見された。総高約23チ言,像高12巧弱である。銘文は台座正面と右側面に8行づつ16行にわたって陰刻されていたものが微かに見える。銘記のはじめに「興安二年」(453)とあり側面半ばに「繹迦」の字が判読され,北魏の銅造釈迦如来坐像で稀な発見である。これらの壱岐・対馬・五島そして北部沿岸に所在するおもに朝鮮半島の仏像や文物については,いつ頃移入されたものか,九州での咀哨消化はどうかなど,さまざまに論じられていて課題は多い。時代が降って,この度の調査で数件の中国明時代の銅造あるいは鉄造の仏像が採録された。無銘の中国製銅仏や誕生仏などよく見かけるが,これらについても国内へもたらされた時期について確かめにくい。第二次大戦前に持ち帰られたものも含んでいるようで,九州の歴史に直接馴染まないものもあるが,長崎から入る明清美術の淵源の一端として把握を続けるつもりである。おわりにこの度鹿島美術財団研究費助成によって,九州在銘彫刻調査を進め,全時代を対象としたため,広く薄い印象はあるが,従来の在銘作品の確認,あるいは新発見の主要作品調査ができたことを喜んでいる。そして九州在銘調査研究にひとつの段落をつけることができたことを感謝している。-163-
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