鹿島美術研究 年報第6号
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26.中国仏教石窟彫刻の研究ー写真資料の収集と整理及ぴ日本国内の作品調査一研究者:奈良国立博物館美術室技官岡田研究報中国仏教彫刻史の研究において,研究者は自身で石窟寺院を踏査し,洞窟内の空間及び彫像の大きさ,さらには他の石窟との距離を実感しながら,その造像様式の特色,地域性を理解する必要があるが,いま問題となるのは,中国の石窟寺院は過去の不幸な歴史により彫像の多くが破壊を受けていることで,特に頭部を失った像の多いことは,像の作風を正しくイメージするのに大きな障害となっている。そのため,破壊以前の写真資料の収集と現在中国国外にある作品を実見・調査することが不可欠である。ところが,比較的規模の小さい石窟寺院についてはかなりの程度復元的な資料収集が可能であるが,大規模石窟からの将来品の場合,その原所在を確認できることはむしろ少ないと言える。このような状況のもとで,今回の調査と資料整理とによって,龍門石窟将来の二作品についてこれがほぼ敬善寺洞という同一の窟内から将来されたものであろうとの確信を得た。以下,その概要を報告する。中国三大石窟の一つ龍門石窟は,河南省洛陽市の南郊,伊水の流れをはさんだ東西両岸の山崖に開かれた石窟である。造像活動は,太和18年(494)の北魏の洛陽遷都に先駆けて始まり,やがて宣武帝による勅願窟の造営を最大の契機として,北魏末期の隆盛を実現したが,永煕3年(534)には北魏が東西に分裂し,そのちょうど境界線に接した洛陽が没落すると,以後はごくわずかの小寵開蓋によって命脈を保つという有様になった。貞観15年(641),太宗李世民の第四子魏王李泰が賓陽南洞を再興し,およそ一世紀にもおよぶ停滞の時期を経た龍門石窟はようやく復興の時を迎えた。ここにおける唐代造像はまず賓陽洞区南側の敬善寺洞周辺を起点に展開し,やがて上元二年(675)の奉先寺洞完成,則天期における極南洞,東山諸洞の開馨と続いていく。その仏像彫刻の様式展開は,かつて受けた長期間の停滞という大きな打撃によって,初期にはやや特殊な様相を示すものの,首都である長安(西安)の中央美術と密接な関係をもった。長安造像の遺品が極めて少ないこんにち,龍門石窟の諸像を見ることは,これを通して長安様式を類推することができ,初唐様式を考える上で重要だが,このことは,ひいてはわが国の7世紀後半から8世紀前半へかけての彫刻様式を考える上にも必要で健-164-

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