鹿島美術研究 年報第6号
194/304

(B)に所載されている。この時点ではパリのH.Savadjean氏のコレクションであった660年代後半の双洞,咸亨4年(673)の恵簡洞,永隆元年(680)の万仏洞などの如来・比丘像の各頭部と比較すると,それらの張りのある,また裁然とした線と面を刻む表現と明らかに一線を画することは前掲如来像頭部と同じである。そこでこの如来像頭部と比較するならば,全体により丸みがあり,両眼や両耳に彼のような不整な感じがなく形にも違いが認められるが,この全体の柔らかな感覚には極めて近いものがあると言えよう。またこの菩薩像頭部も如来像頭部と同様に左右の口角では左をより深く刻み込んでおり,この彫り癖の類似にも留意したい。さらに天冠台下の地髪を平た<重ねる表現は,レリーフではあるが敬善寺洞内の左右壁に彫刻された神将像の頭部が表現上近いようである。〔備考〕この菩薩像頭部は,すでに1925年発行の0.SIREN『ChineseSculpture』PL,467 が,近年わが国の某氏所有となった。松原三郎氏は,この頭部を「豊艶な顔容からも盛唐期に入る頃の製作と見られるが,或いは万仏洞後壁本尊の脇侍頭部とも推定される。」としている(『吉金楽石』1988年)。しかし,常盤大定•関野貞『支那仏教史蹟』II(1925年)の図版71に載せる破壊以前の万仏洞後壁脇侍菩薩像の写真を見れば,髯や宝冠の形,面貌のつくり,みなこの菩薩像頭部と異なることは明らかである。また,現在現地で万仏洞両脇侍像の欠失した頭部跡を見ると,その切断面は両耳までの幅いっぱいにあり,この菩薩像頭部の背面にある幅10センチの切断面と一致しないことも明らかである。私はこの頭部に龍門石窟初唐彫刻の初々しさを見ても,盛唐彫刻の「豊艶」な顔容を見ることはできない。そのような顔容は,万仏洞々前南壁上にある永隆二年(681)銘観世音菩薩像(前掲『支那仏教史蹟』II-70参照)をはじめとして,この頃以降の菩薩像のものである。この菩薩像頭部が前掲如来像頭部とともに万仏洞諸像と異質の彫刻性を示すことは前述の通りである。敬善寺洞々内の両脇侍菩薩像には,現在後補の頭部がのっており切断面については確認できない。そこで両像の足下から肩上までの高さを測ると,右(南壁)像は144.0センチ,左(北壁)像は147.0センチある。大きさから見てもこの両者はまことにふさわしい。どの像の頭部であったかの確定はいまなおできないが,これが敬善寺洞将来の菩薩像頭部であることはほぼまちがいない。168-

元のページ  ../index.html#194

このブックを見る