鹿島美術研究 年報第6号
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言に,その執筆意図等を考慮しつつ,可能なかぎり具体性を与えることを,その最終的な目的としている。実際,『イ・コムメンタリイ』第二部,すなわち,第二の『コムメンタリオ』の記述内容の重要さは,だれにとっても疑いないものでありながら,その記述から明確な概念を引き出すことは頗る困難である。その理由としては主としてつぎの諸点が考えられよう。(1)その記述がしばしばあまりにも簡略であるため,その内容が曖昧なままにとどまるか,少なくとも複数の解釈の余地を残す。(2)ギベルティ自身が,語句,就中,ヒューマニスト的な抽象的な語句の意味を明瞭に限定し得ないまま使用している可能性がある。(3)想像されるところのギベルティの原手稿の少なからず混乱した状態に加え,原手稿と現存する唯一の写本との間にさらに不正確な要素が加わることになったと考えられる。解釈する側のわれわれとしては可能なかぎりギベルティ自身の立場に身を置いて考えてみなければならないことはいうまでもない。その一例。たとえば,ギベルティがアムブロジオ・ロレンツェッティをシモーネ・マルティーニにより高く評価しているは,繰り返し指摘されてきた。MaestroSimone が最も優れた画家であるとするが,私にとっては,アムプロジオ・ロレンツェッティのほうが一層優れており,彼は他のだれよりも知識がある。)しかし,この場合,忘れてならないことはギベルティの知っているシモーネ・マルティーニは,われわれに今日知られているシモーネ・マルティーニとは異なっている可能性が強いということである。今日,シモーネの代表作として,大方の承認を得ているアッシジのサン・フランチェスコ聖堂下堂のトゥールの聖マルチヌスの物語を描いた壁画が初めてシモーネに帰せられたのは18世紀末のことである。したがって,ギベルティの価値判断の中のシモーネに対するアムブロジオの優位性を指摘するだけでは,ギベルティの判断の内容を正しく理解したことにならない。ギベルティはアムブロジオ・ロレンツェッティの,シエナのサン・フランチェスコ聖堂の,フランチェスコ会修道士達の殉教の物語を描いた壁画について特に熱っぼい口調で語っている。ギベルティがアムプロジオをFunobilissimocomponitoreと呼び,fu nobilissimo pittore e molto famoso. Tengono i pittori sanesi fosse il migliore, a me parve molto migliore Ambruogio Lorenzetti ed altrimenti

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