鹿島美術研究 年報第6号
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Lorenzo Ghiberti's Treatise on Sculpture the Second Commentary, 1970,及びC.K.Fengler, Lorenzo Ghiberti's Second Commentary, 1974参照。両者とも学位論文。)こと。こういった内容の記述を『イ・コムメンタリイ』の中に見ることができる。したがって,ピエトロについても.この人物がギベルティに知られていたのであれば,当然幾許かの言葉が費やされたであろうと推測することができる。前述のスペダーレ・デルラ・スカーラの壁画に関しては,その銘文にギベルティは気付かなかったばかりでなく,おそらく,シエナの一部の伝承にしたがって,その壁画の作者とピエトロ・ロレンツェッティを誤ってシモーネ・マルティーニとした可能性がある。(JuniceL. Hurd, しかし,『イ・コムメンタリイ』の記述から明らかなごとく,シエナのパラッツォ・プップリコのマエスタや,フィレンツェの『受胎告知』のごときシモーネ・マルティー二の作品を目にしたギベルティが何故この画家のスタイルとピエトロ・ロレンツェッティのそれとを混同し得たのであろうか。この説明の付かない事柄を検討するに際しては,クラウトハイマーの指摘する次のような事実も考慮されなければならないであろう。すなわち,ギベルティのフィレンツェの洗礼堂北側扉の浮彫において,キリスト受難の場面のうち,「最後の晩餐」「鞭打ち」「ゴルゴタヘの道」の三場面はウゴリーノ・ダ・ヴィエーリのオルビエトのエマーユの作品を思い出させること,このエマーユはピエトロ・ロレンツェッティ及び,その流派の影響下にあること,ギベルティは必ずしも上述のエマーユに依拠したのではなく,ピエトロ・ロレンツェッティか,もしくは,その工房の制作になるフレスコに刺激を受けた可能性のほうが大きいこと,事実,ギベルティの「イエルサレム入城」は上述のエマーユより,むしろ,ピエトロ・ロレンツェッティのアッシジのフレスコの中の同主題の場面に近似していること。そして,さらに,「天国の扉」においても,その枠を飾る,横たわる「エヴァ」がピエトロの流派の作品中にみられるエヴァとの繋がりを示していること等,ギベルティがピエトロ・ロレンツェッティ,ないしは,その流派の作品に接して,自分の作品のために幾つかの点で学ぶところがあったと推測せしめている事実を,クラウトハイマーは幾つか挙げているのである。(R.Krautheimer,Lorenzo Ghiberti, 1956.) 現在,ピエトロ・ロレンツェッティに帰せられるアッシジのフレスコは,ヴァザーリによれば,3人の画家の仕事であった。すなわち,「聖痕を受けたサン・フランチェスコ」はジオットによって,「傑刑図」はカヴァルリーニによって,そして残りの受難図がプッチオ・カパンナによって描かれたことになる。最初にフレスコをピエトロ・-172-

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