12使徒を乗せた一隻の船と,神が水面を歩みながら姿を現す様,聖ペテロが大変な風Morisani, 1947によった。)の吹き荒ぶ中を船から身を投げ出す様を示している。これは非常に優れた出来で,大層入念に制作された。)この部分は,ギベルティの一般に簡略な記述の中では多少目つ部分になっている。ジオットの「ナヴィチェルラ」についての簡略な記述と,ステファノのそれについての比較的能弁な語り口は,ギベルティがアルベルティの説く芸術理念に内心同調しつつも,ジオットの「ナヴィチェルラに詳しく触れることによってアルベルティとの一致を明瞭に示して,その影椰の痕跡を残すことを故意に避けた結果ではなかったであろうか。前述のアムブロジオ・ロレンツェッティの壁画についての記述が,ギベルティ自身の「天国の扉」についての記述と類似していることは容易に気付かれることである。しかし,両者の間には,相違点もあることが見逃されてはならない。後者の場合は,扉の個々のパネルが記述の各部分に対して枠を与えているのに対し,アムプロジオの壁画についての記述では,そこから個々の画面の境界を明瞭に読み取ることができない。扉の記述では事実を読者に確認させようとする姿勢がみられるのに対し,壁画の場合にギベルティが読者に提供するのは,ギベルティが壁画に見た,ないしは,見ようとしたものである。第一の『コムメンタリオ』でギベルティはウィトルウィウスやプリニウスの著作に依拠しながら自分自身の芸術理念を披1歴している。同じ執筆態度が第二の『コムメンタリオ』にも認められるであろうと想定することは自然である。つまり,第二の『コムメンタリオ』の場合,その記述を支えているのは単にギベルティの歴史的関心だけでなく,その記述を通して,ギベルティ自身の芸術理念を語ることが,むしろ本来の目的だったのではあるまいか。第二の『コムメンタリオ』は『イ・コムメンタリイ』全体の中では,それの持つ歴史的骨組みによって,読む者に,纏まりの良さや首尾一貫性をともすれば実際以上に印象づける嫌いがある。ギベルティの味を読み取るためには,むしろ,第二の『コムメンタリオ』の中のジオットや,アムブロジオ・ロレンツェッティや,グスミンやギベルティ自身に関する個々の記述のそれぞれが示している異質性と,ギベルティの書物の中でそれらの個々の記述が主張している内容とが,もっと注意して吟味されなければならないであろう。(文中の『イ・コムメンタリイ』からの引用箇所はLorenzoGhiberti, I Commentari a cura di ottavio ら正確な意175-
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