鹿島美術研究 年報第6号
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想(それは近世にいたって不受不施派として分立するのであるが)との共通性を,この三社託宣は持っているのである。正直・清浄・慈悲を重んじる精神と一蝶の制作態度を決して別なものではなく,一蝶の精神修行としての作画活動に反映し統合されていることが,正に本図からうかがえると言えるであろう。また一蝶は,島一蝶時代に限らず生涯を通して「釈迦如来像」(承教寺蔵),「地蔵菩薩図」(メトロポリタン美術館蔵)といったいわゆる仏画の制作も行なっている。法華宗信者にとって釈迦如来像などの制作は,単に注文制作というだけでなく自らもまたありがたいものであったにちがいない。一蝶の信仰については,文献資料として唯一「延宝元禄(三宅島)流人帳控」があげられる。ここでは一蝶の宗旨が「法花宗」であると明記されている。同様に流された罪人十人のうち三人が不受不施の咎を受けた僧籍であった点は注意を要する。また一蝶ゆかりの寺として本久寺(陣門法華)に一蝶下絵の半鐘が伝えられているが,亀山藩との関わりによる父祖の代からの法華信仰がうかがえる。一蝶流鏑の不受不施派原因説については,喜多川信節著『笥庭雑録』に大田南敏説として掲載されている。しかし僧侶以外に不受不施派を正式な罪状にできなかったという当時の政策から,表向きの罪状を「馬之物云」としたのではないだろうか。だがこの馬の口を借りてでも権力に物を云う態度そのものが,日蓮宗の折伏諫暁に等しい不受不施的なことなのである。当時の不受不施信者が一般にとるべき道は,他宗への改宗か,内信か,法立(不受僧に随順し無宿となって信仰を貫く)かであった。不受不施を貫徹した僧侶は法中と呼ばれ流浪の僧となる。一蝶画にしばしば登場する西行風の放浪僧は,この法中と呼ばれた不受不施僧なのではないだろうか。一蝶が内信であったのかどうかは,その徹底した禁教政策への対応から,現在その証拠を見出すことは困難である。ただこうした一蝶画に登場する人々の姿からうかがうしかないようなのである。近世風俗画が年中行事や遊楽に重点をおいたものとなり,信仰も遊芸化世俗化して一見見すごされやすい見立ての趣向で表現されるようになる。幕府による宗教統制と禁教政策は,自由な発想と制作を規制するものであった。こうした状況下,一蝶は吉原に逃げ込んだが,遊里はまた最も神の世界に近い場所でもあった。一蝶の秘めたる仏道へのあこがれは,俗世への執着をともなって吉原遊芸の巷の往種となり,矛盾をはらみながら制作のエネルギーとなった。一蝶を育んだ民衆のたくましさや神仏への-180-

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