1595■1648)との親交である。活所は山雪より五歳若年であったが,師からその学殖さて,ここでは以下,山雪画の資質と精神的風土についての二,三の問題点を指摘し,研究報告に替えたい。伝記については,最近,土居次義氏が山雪の本姓(秦氏)や生国(肥前国)から,山雪の先祖は渡来人ではないかと推測されたが,この仮説は確かな証拠はないが,彼の儒学(朱子学)への志向を考える上で示唆するところが大きい(『京都新聞』「異色画家・狩野山雪」,1986,10, 18)。山雪の交友関係についていくつかの新知見がある。山雪が平四郎と名のっていた青年期に,近世朱子学の開祖となった藤原1星窯の門人の一人,那波活所(宇道円,と詩オが認められ,将来が嘱望されていた。山雪はこの活所を尊敬し,彼を通じて交友を広めていったと考えられる。元和3年(山雪30歳)に,山雪が活所に贈った山雪筆「西湖十景図扇面画」に対して,活所は詩二首と序を書いて謝し,同年5月10日,この扇面画を活所から見せられた裡窟も題詠し,その画を賞賛している(怪窃は同年9月12日没す。享年59歳)。このことは,林鵞峰述『狩野永納家伝画軸序』にも略記されているが,その典拠となったのは『活所遺藁』と『1星窟文集』である。1'星窯は,山雪が狩野氏累世の画人として世間に知られていたことを述べる。このことはすでに山雪が山楽の養子になり,その後継者となっていたことを示す。山雪は活所を通じ,1星窯とも旧知の間柄であったと思われる。新発見の山雪筆「草堂図」(兵庫・個人蔵)は,川畔柳下の草堂に閑居する隠士を描いたもので,活所の遺愛品である。その図上には,関ヶ原の役での去就を問われて戦後徳川氏より小浜城主の封を除かれ京都の東山霊山に隠棲した木下長嗚子(1569■1649)の和歌賛「雲居とふ鷺のつはさもゆきいなむ窓の青柳花かつらして」がある。長鳴子の「那波道円につかわすことは」(『挙白集』所収)に「このころ老杜か草堂の図に歌ひとつかきてやる」とあり,ここにいう杜甫の草堂図とは山雪画のことと思われる。長鳴子は文人としてはまれに見る蔵書家であり,その『山家集』に「もろこしの文一千五百巻をあつめて,かつこれをたよりによむ」とあるほどで,当代の碩学の1星窓の知識などは,長嗚子の蔵書の借読に負うところが少なくなかった。山雪筆「藤原匪窯閑居図」(根津美術館蔵)は,1星窟が北肉山人と号して洛北市原に隠棲していたころの閑居の様子を描いたもの。1星窯の門人の堀杏庵(1585■1642)と林羅山(1583■1657)の詩賛がある。羅山の詩は「1星窯先生像」の賛詩として『林羅-182-
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