山詩集』に寛永16年(山雪50歳)の作として収録されている。この図は室中でくつろぎ,庭の松籟を聴く一人の隠士の姿を描くが,その家屋や樹木や築地の丹念な写実的な描写に,かつて山雪が市原の1星窯の居処を訪れたときの印象によって描いたと思わせるものがある。1星窟は好んで松竹を庭に栽え,「松下」「竹房」と号した。この閑居図は室町詩画軸の「陶弘景聴松図」(山梨県立美術館蔵)に代表される「聴松図」のモチーフを借りている。かれはその新図を試みているのである。山雪筆「盤谷図」(京都・個人蔵)は,唐の韓愈の「送李恩帰盤谷,並序」によるイメージ。唐の李恩が隠棲した太行山脈南麓の「盤谷」の情景が,克明な水墨描写で表されている。明未の文人画家董其昌(1555■1639)に同主題の作品(大阪市立美術館蔵)があるが,山雪のはおそらく日本で最初に描かれた画題であろう。近世文人画の誕生を告げる記念的な作品である。そのモチーフはすでにある「赤壁画」や「金山図」を借りている。幕末の京狩野九世の狩野永岳の箱書(安政5年)によれば,山雪が「盤谷図」を描き,それに活所が「盤谷序及題」を書いたものが,京狩野家の什宝として伝えられてきたが,永岳の時代に北風貞忠に乞われ,譲ったとある。この箱書により,山雪と活所の親密な関係が実証される。また,男山に隠棲した松花堂昭乗(1584■1639)が山雪に宛てた書状(根津美術館蔵)がある。ここでは山雪の押絵(貼交屏風)を質賛しており,ふたりの交流が知られる。なお元和元年6月,大阪落城後,豊臣氏の画家である狩野山楽が男山の昭乗に身を寄せ,昭乗の助力で命が救われたことは有名である。元和寛永期(1615■1643)は,近世市隠を生んだ時代であり,文人意識の成立をみた時代である。その代表である藤原裡窯は,宋時代にできた新しい儒学の朱子学を取り入れ祖述するが,その仕方は「天理」(自然法則)と「人欲」(人間の欲望)を規定することで,自然の,社会の完全な秩序を説く。その哲学の実証的方法は当時にあって清新であった。この1星窯を中心に林羅山,松永尺五,堀杏庵,那波活所などの優れた儒者が集まり,木下長鳴子や松花堂昭乗を含めて,京都という古典文化の伝統の地に,隠逸的な文人サークルが形成された。「うまれつき隠論を好み,俗に接するを悦ばず,ただ心に後素を潜める」というのは,林驚峰による山雪の人物評である(『画軸序』)。かれが「蛇足軒」「桃源子」「松柏山人」と号したのは,自らの隠逸的文人資質の現れである。そういう性格の山雪は,'涅窟のサークルには加わり,かれらと親しく交わり影署を受け,自らの学問教養を深めた。-183
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