37, 38, 48, 54, 55の各巻の裏書もこの筆跡Aである。両者に重複する巻はなく,こ5, 6, 7, 8, 12, 17, 19, 20, 31, 39, 40, 44, 47, 48, 49, 50, 51, 54, 57の46, 55の各巻である。又,第9,27, 28, 42, 52の五つの巻では両者が併用されてお41, 42巻)では兼意はすべて「成蓮院」と記されており,兼意の項と実運の項の頭書何人ぐらいが作業に当ったかは確言し難いが,少なくとも三人以上であることはまちがいないであろう。その中で比較的判別が容易な,縦画を極端に細くする癖を持ち全体に神経質な印象を受ける筆跡Aを抜き出してみると,第14,25, 28, 33, 44, 50の各巻の本文がこの筆跡Aであり,第3,6, 11, 12, 18, 19, 26, 27, 31, 34, 36, の人物が一つの巻の本文と裏書の両方を書写することはなかったことが分かる。全体の三分のーを上回る計十六の巻の裏書にこの筆跡Aが見え,この人物は主に裏書を担当していたことが分かるのだが,本文にその筆跡がみえる巻もあることより考えて,本文を専門に筆写する僧と裏書を専門に筆写する僧に清書の分担が分かれていたのではないことも明らかである。このように仁和寺本が一巻ずつ清書されたのであれば,その製作の先後は(図像を除外して考えた場合)巻単位で考えれば良いことになるが,報告者はこの問題に関して,編纂者が成蓮房の項にどのような頭書を付けているかが一つの目安になるのではないかとの予見を持っていた。すなわち仁和寺本には兼意の項を「成蓮房」と記す巻と「成蓮院」と記す巻の二種が有り,「成蓮房」と記されているのは,第2,3, 4, 各巻,「成蓮院」と記されているのは,第11,14, 16, 18, 25, 26, 30, 36, 38, 43, り,第15,33, 34, 37, 56の五つの巻では当然「成蓮房」あるいは「成蓮院」と頭書が付されるべき箇所に何も記されていない(この五つの巻は全て明王関係である)。師説の頭書に関しては,実運の項についても「勝倶脈院」と記す巻と「倶脹院」と記す巻の二通りが有るのだが,「倶脈院」と記す巻(第11,15, 16, 18, 25, 26, 27, 28, には明らかな対応が見られるのである。そしてあくまでも主観的な判断であるが,それぞれの巻の図像を比較してみると,「成蓮房」と記す巻の図像は細部まできちんと描かれているもののその描線には硬さが感じられるのに対し,「成蓮院」と記された巻の図像では,図様は大まかであるが描線は柔軟なものが多い。又,兼意の項に何も頭書をつけぬ明王関係の巻の図像はやや硬めの描線ではあるが,図様は細かく丁寧であり,全体に本格的で力強い印象を与えるものが多いように思われるのである。以上のように,仁和寺本の各巻は兼意の項の頭書をもとに三つのグループに大別す-190-
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