鹿島美術研究 年報第6号
219/304

から付け加えられた部分と考えることもできる。この第52巻のように「成蓮院」と「成蓮房」が併用されている巻は他に第9,27, 28, 42の四巻があるが,すべて「成蓮院」が巻頭に置かれ,「成蓮房」と記す項はその後に付け加えられるように置かれている点も注意すべきであろう。このように,各部の中で最後の整理と考えられる巻には「成蓮房」の頭書が用いられる場合が多いのであるが,ただし念怒部のみは整理の巻に該当する第38巻で「成蓮院」が用いられている。この場合注意されるのは,念怒部で「成蓮房」が用いられているのは第39巻のみであり,他の第15,33, 34, 37, 56の各巻が兼意の項に何も頭書をつけぬ第三のタイプとなっていることである。報告者の推測通り念怒部の中で第38巻が最後に編集されたのであれば,それは兼意の項の頭書に何も記さぬ巻が「成蓮院」と記す巻より早く成立したことを示すと考えられるのである。以上の考察を整理すると,仁和寺本は兼意の項に何も頭書を記さぬ巻,「成蓮院」と記す巻,「成蓮房」と記す巻の順に成立したことが予想されるのであるが,まだ推測と云わざるをえない部分も多い。いくつか問題点も残されており,その最大のものは本文の筆跡に関する問題である。すなわち,図像の画風についてはこの三者の間で相違があるように見えるのに対し,本文の筆跡に関してはこの三者の間に相違は見出すことができず,先ほどの筆跡Aについてみても,最も早期の成立と考えられる念怒部の巻にも,又,最も成立が遅れると考えられる第3巻や第6巻にも,この筆跡は見出すことができるのである。もし報告者が推測した成立順が正しいのであれば,本文の筆跡の違いは年代によって執筆者が代わったことを示しているのではなく,常にある複数人によって作業が進められたことを示すことになるが,この場合,図像の画風に年代の変遷が見られるように思われることとやや矛盾することになる。あるいは図像を筆写した人物のみが年代によって代わったと考えるべきなのかもしれないが,現在そのように判断するだけの十分な根拠はない。又,十二世紀の白描図像の描線の変遷の中で,先の三つのグループをどう位置ずけるのかも大きな問題である。報告者の推測する成立順に従えば,念怒部に見られる本格的で力強い表現の図像,請雨経曼茶羅に代表されるような柔軟な描線の図像,如来部に見られるような硬い表現の図像の順で筆写されたことになるが,十二世紀後半にされた白描図像群の中に置いたとき,この成立順に無理がないかどうかが検討されなければならないであろう。白描図像の様式的な考察は,祖本を忠実に転写する場-192-

元のページ  ../index.html#219

このブックを見る