鹿島美術研究 年報第6号
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はすでにマゼール天井の「諸惑星」を表す神々の像の典拠としてコレッジオのく聖ヨハネの幻視>(パルマ・サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂)を挙げている。ヴェロネーゼのエミリア旅行の時期としては,例外的にコレッジオ的スフマートの影響を強く示唆するカエン美術館の<聖アントニウス>が制作された1552年の直前の時期が想定されよう。トレヴィザン邸とマゼールにおける四元素の表現の比較は,興味深い結果を引き出した。すなわち,マゼールの四大各像の表現は,ミケランジェロのメディチ家礼拝堂の<-日の四つの時>の諸像ホーズを各々反映しているのに対し,トレヴィザンではこうした関係が全く見られないのである。きわめて有り得べき仮定は,両装飾を隔てている3年の間に,ヴェロネーゼがフィレンツェの作品を実見した,ということである。リドルフィはヴェロネーゼがジローラモ・グリマーニに随ってローマに旅行した旨を記しており,その年代は1554年,1560年,1566年の3つの可能性に限られる。3つの時期は各々レイスト,パルッキーニ,ゼーリによって主張されているが,上記の観察は第2の年代を(さらにフィレツェ訪問を)支持するものかもしれない。マゼールの装飾にふんだんに指摘し得る古典的作品の引用は,この仮定に好意的な材料といえる。いずれにせよ,四大の表現の比較する観取される様式的展開は,「意味と形態とのより洗練された関連づけ」と呼ぶことができる。マゼールの例に関連して興味深いのは,ティントレットが1564-65年に総督宮の一室の天井に,やはりミケランジェロの諸像に基づいて童子像の「四季」を配していることである。ヴェネツィアにおけるデビュー期にあたる1550-60年代初頭のヴェロネーゼの業績は,同市の絵画史の上できわめて特徴的な一状況に対応したものと考えられる。1520年代以降,先進的なパトロン達は人文主義的価値体系の視覚的表象を次第に要求するようになっていた。古典的様式による寓意図像はヤコポ・サンソヴィーノによって本格的にヴェネツィアに導入され,40年代には中部イタリアから招へいされた画家達が新しい要請に答えていた。しかしながら,ティツィアーノ的「色彩」を中核にヴェネツィアの審美基準にとって,彼らの様式が必ずしも全面的に支持され得なかったことは容易に想像される。こうした状況下,1556年サン・マルコ図書館天井のために行なわれを捜す試みであったといえよう。この競作で第1位を獲たヴェロネーゼによるローマ「研修旅行」,そしてバルバロとの協同作業による野心的な世俗装飾の試みは,ヴェロた7人の画家による競作は,いわばヴェネツィアのパトロン達が「自らのラファエロ」-196-

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