術遍歴は,同じアイルランド人ジョージ・ムアにも見られる。青年時代のムアはパリに滞在し,アカデミー・ジュリアンに通う画学生であった。後年ふたりは,アイルランド国民演劇を創造するための「アイルランド文芸劇場」を創設することになる。1899年のことだ。ムアのパリ滞在は,1873-1880年。続く80年代にパリを訪れるのは北欧の芸術家である。76年,83年,94_96年。たびたびパリ郊外の寒村グレー=シュル=ロワンに顔をだすのは,ヨハン・アウグスト・ストリンドベリである。その村にある芸術家コロニーで彼が知りあった画家には,ブルーノ・リリェフォス,カール・ヌードストローム,アンデシュ・ソーンらがいる。いずれもスウェーデンの画家。彼らは一般に外光派とよばれている。80年代にパリを訪れた北欧の画家の多くは,90年代にひとうの方向転換を行っている。それは民族的国家主義を反映した象徴的な表現である。その代表的な画家のひとりは,フィンランド人アクセス・ガッレン=カッレラ。彼は,1884-90年にパリに滞在し,アカデミー・ジュリアンに通った。しかし90年代の作品には,古代フィン族の叙事詩「カレワラ」を主題に採った。カレリアズムが色濃く出ている。1900年パリ万国博覧会のフィンランド館は,ガッレン=カッレラ描く「カレワラ」の壁画で装飾された。80年代にはまた,アイルランド外光主義の画家ジョン・レイヴァリが,グレー=シュル=ロワンに滞在している。レイヴァリの風景画には,浅井忠や黒田清輝などが描いたグレーの古寺や洗濯場が描かれている。このパリ郊外の寒村で生まれた幾つかの芸術家コロニーは重要であり,特に北欧や東欧,米国,日本の画家といった,列強諸国以外の国々の芸術家村とそのサークルは,この地で育まれたことを特記せねばならない。70年代や80年代に形成された,こうした芸術家コロニーの画家が,一時祖国に帰郷し,再びパリを訪れたのが,実はこの1900年パリ万国博覧会なのである。世紀末に留学した黒田清輝と久米桂一郎の場合もそうである。黒田の『智.感・情』のもつ象徴性は,まさに北欧画家の特性に呼応している。また白馬会系の画家の描く,一種民族主義的な雰囲気の漂う農村風景もまた同じである。この時期の北欧画家の何人かか,遅れたジャポニズムを経験していることも見逃せない。東欧を代表する画家のひとりは,もちろんアルフォンス・ミュシャである。この万博で彼はオーストリアの画家に列挙されているが,晩年のミュシャがいかに祖国チェコスロヴァキアを思っていたのかはその膨大な歴史画が物語っている。日本の場合は,民族独立の旗印こそなかったが,ウィーン万博に始まる「殖産興業」と,日清・日露を狭む「富国強兵」政策が常に背後に隠れている。明治20年代から大正期に199_
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