M.の特徴は様々な点で踏襲され名残りをとどめる。)但しM.の人物像には,ローマ的向が指摘できるが,より洗浄された筆致が認められる。より計算された賦彩,明瞭な形態,整合性の高い空間法には様式上の成熟がみられると言え,それが本研究でM.を重要視する所以である。(同図書館Ms.429の挿絵様式はすでにゴシック性が顕著だが,要素をより濃く伝えるアストゥリアス美術,例えばリーリョ聖堂の石彫などに親密な面も見出され,その限りではベアトゥス写本芸術にまた別のスペインに土着的な一面が確認されよう。以上についてはより詳細かつ広範な視点による検討が必要であり,結論に至るには性急な解決と予断ぱ慎まなければならない。しかし今後の研究の方向を示す意味で中間報告としてまとめれば,E.を中心にM.との比較をあわせて検討すると,10世紀のベアトゥス写本芸術は,スペイン・西ゴート美術の土壌に育まれ,アストゥリアス美術の動因により,(更に外伝各要素を摂取しながら)展開していったと思われてくるのである。りか広く興味のもたれている或る問題が出来しており,以下それについて私見を略述しておきたい。その問題とはE.挿絵と20世紀のピカソの作との関連をめぐるもので,即ちE.の黙示録第九章く第五の審判〉(fol.96v.)中に怪物としての蜆が描かれ,その顔が横向と正面向を合成したく二重表現〉となっており(図1),それが或る種のピカソの肖像画に類似すると指摘されたのであった。(図2<肘掛椅子の女>ゼルヴォス(以下Z.)VII334等)。スペインではG.メネンデス・ピダル(1958年),フランスではA.グラバール(1967年)などが両者の関連を認める発言をしている。そもそもベアトゥス写本挿絵とピカソの画業とを関連づける考察は,1930年頃以降パリにベアトゥス写本群が紹介されるに及んで度々なされてきた。紹介者の中にピカソと親しいG.バタイユ(1930年)やCh.ゼルヴォス(1931年)の名がみられるのであればなおさらその論調は高まった。折りしもパリに留学中の吉川逸治先生はその頃を次のように回想されている。『1937.8年はスペインで10,11, 12世紀に盛んに作られた……ベアト〔ゥス〕黙示録註釈書の挿絵が流行しはじめた頃にて,超現実派の画家たち,評論家たちやピカソ自身もベアト〔ゥス〕本芸術に惹かれていたという程』であった(1977年)。当時パリ国立図書館では,ベアトゥス写本をはじめとするスペイン古写本群を含む写本展が開催されたりもした(1937年7月ー38年1月)。こうした状況で一部には,ピカソがベII.ところでE挿絵の人物表現を考察するに際しては,ベアトゥス写本研究者ばか-231-
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