エクレシア節)<偽会衆〉と定義づけ,正しき会衆に紛れ込み,人びとを惑わし,凶悪な力で神に敵対するものと解釈した。この考え方は元来,ベアトゥスの註解全般を通じてのメイン・テーマに合致する。ベアトゥスは黙示録全体を,正しき会衆と悪しき偽りの会衆の闘争の経過という視点から解釈しており,なべてキリスト教徒は恒常的に悪との戦いにさらされ,それを逐一克服してはじめて選ばれて天国に導かれる,悪の中でも最も啓戒すべき敵は,巧みに惑わす偽りの会衆,司祭,預言者である点をあえて強調したのであった。蛙の顔の記述についてもこの主張が展開される。その註解文では,『顔は人の頗のよう』とあるのは,<偽りのキリスト教徒〉を意味している,蛙は正しき教徒が〈偽りの〉とは知らずに近づくのを誘っている,我々と同じ顔で同じその口で我々を偽りの信仰に導こうとするものである,と説明される。同時に蛭が『獅子のような歯jを有するのは,<偽会衆〉のく正しき者を喰う力の強さ〉を示し,<偽会衆〉は常に(獅子のように)腹をすかして待っている,と註解されているのである。それならばく偽会衆〉たる蜻は,象徴的に二様の顔をもつことになる。ひとつは人間の顔で正しき者を装う。他は隠された獅子の顔,つまり正しき者を襲い,喰う蛙本来の顔である。そもそもが全挿絵を通して,他の異本にまして象徴性の強い傾向を示すE.の挿絵師が,何気ない正面向の人間の顧と鋭い歯をむき出す獅子の横顔とを合成してここに表現したのは,そうしたベアトゥスの註解を聯重したからであり,<偽会衆〉の狡猾かつ区悪な本性を明らかにすることこそ肝要だったからである。それは蜻の存在の意味を示す象徴的表現に他ならず,ピカソの造形的探究の過程における<二重表現〉とは決定的に相異するのである。図1-233-図2
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