鹿島美術研究 年報第6号
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(5) 6月1日(於名古屋大学)「フレジュスの大聖堂発掘」。フェヴリエ教授の指揮べ」)を中心に論じたものである。1965年にトリヤーで開催された国際キリスト教考古学会におけるコールヴィツとデ・ブルインの論争以降,カタコンベ壁画研究の,特に年代査定の問題は今日まで様々に論じられて来た。カタコンベ壁画研究の難しさは,まず第一に,カタコンベそのものの形成の不明確さにある。凝灰岩の地層を―,--に掘り下げた通路が網の目のように複雑に走るカタコンベは,その起源を砂採掘の地下道,また貯水そうのための地下道にもつものもあれば,非キリスト教徒の富裕な家族の地下墓所から発展したものもある。キリスト教徒がそれを拡張して使用を始めるのは2世紀以降,とくに3世紀に入ってからである。こうしたカタコンベの形成そのものの研究が,今日でも未だ遅れており,その故,壁画研究は図像学的,および様式上の観点から,年代問題をも論ずる場合が多い。しかし近年,レークアンス,トロッティ,ギュイヨン,デッケルス,ペルゴラ,パニ=エルミニ等の研究によって,少しずつ問題点が明らかになりつつある。カタコンベ壁画の最盛期は,370/80年代以降,コンスタンティヌス帝時代(320/30年代)にあるという点である。近々発行されるジャン・ギュイヨンの「二本の月桂樹のカタコンベ」に関する研究書は,カタコンベ研究の新しい成果を提出するものとなるはずである。さらにヴィンチェンツォ・フィオッキ=ニコライの,近年新たな光が投げかけられ,新発見も相次ぐローマ郊外の小さなカタコンベ群の調査報告書も,今後のカタコンベ研究に重要な資料となるはずである。のもとに,プロヴァンス大学考古代研究所は10年来,南フランスの古代ローマ都市フォルム・ユリイ(現在名フレジュス)の古代から中世の遺構の発掘調査を続けている。筆者名取四郎も三度その発掘に参加した。今回,名古屋大学の美術史研究室を会場として,フレジュスの司教座聖堂およびその周辺の,いわゆる司教館も含めた司教座聖堂建築グループ(グループ・エピスコパル)発掘の報告が行われた。ローマの植民都市フォルム・ユリイの存在は紀元前43年のキケロの書簡に確められるが,その後今日までの姿を,とくに古代都市から中世都市への展開を中心に,これらの発掘は行われて来た。現状の司教座聖堂は,洗礼堂が5世紀当時の壁体をよく保存し,教会堂自体も,その西壁は5世紀の壁体を保存している。その後14世紀までの司教座聖堂の増改築の歴史が壁体構造の調査で明瞭になった。今回の報告で圧巻であったのは,司教座聖堂の西側の広場の発掘で発見された1世紀,初代皇帝アウグストゥス時代のものと-257

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