鹿島美術研究 年報第6号
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れてきた。しかし一方で,探幽の画業の広汎さは容易に体系化を許さず,一人の画家としての探幽のインテグリティ(統一性)にまで目が向けられることはあまりなかった。しかし,例えば大徳寺本坊大方丈の「山水図」襖には余白とマッスとがダイナミックに交錯する特異な構成がみられ,聖衆来迎寺客殿「果実図」腰障子には,流派様式とは異質の,紙と墨との繊細な造形がある。探幽の水墨画の全容を眺めわたすことができるならば,上記のような散発的に発見される諸特質をひとつの傾向,あるいはさらに個人様式としてとらえることができるのではないだろうか。そのような個人様式と流派様式とは探幽の中でどのような関係にあったのであろうか。本研究は探幽作品を水墨作例に限定して,まずその枠内で探幽様式をできるだけ明確にとらえようとする試みである。探幽研究には本来厖大な量の関係資料の収集作業が先行すべきであるが,それにはさらに長大な時間と地道な収集活動が必要である。水墨画における探幽様式の特質を捉えておくことは,将来長期間にわたって継続されてゆくであろう探幽研究にひとつの指針を与え得るものと考える。35.鎌倉時代における宋代浄土教絵画の受容について研究者:東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程吉村稔研究目的:浄土教絵画の史的展開のなかで鎌倉時代のそれを特色づけるものは,一つには鎌倉時代初期における新仏教成立に関連した仏教絵画の変容であり,また一つには前代末期から進行しつつあった宋代絵画の影特の顕在化であると考えられる。本研究は,後者の問題をとりあげ,当面その範疇を宋代浄土教絵画に限定したうえで,主題や表現形式等の諸側面に及んだ複雑な影響関係の実態を解明することを目的とする。さて,宋代において浄土教が頗る隆盛していた史実はそれが豊かな造形美術を撓していたことを推測させる。そして浄土教という共通の基盤が我国における宋代浄土教絵画の摂取を容易にしたであろうことは想像に難くない。しかしながら,同期の仏教界において同様に興隆をみた禅宗の美術に比し,この分野の研究は,中国絵画史の,また我国との影聾関係の,いずれのコンテクストにおいてもほとんど進展していないのが現状である。従って,本研究は,現存する宋代浄土教絵画を中国絵画史の展開のなかに位置づける試みから始め,漸次我国における受容の問題に考察を及ぼすこととする。-47

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