(3) 孔雀文格狭間の成立過程⑫ 京都本法寺金銅宝塔(応安3年=1370)などが挙げられる。問題は,格狭間に飾られる鳥は孔雀だけに限られていること,管見の限りでは中国や朝鮮半島における孔雀文格狭間の作例を見いだせず,我国のオリジナルと考えられることである。さて,ここに挙げた作例のうち,孔雀文格狭間の成立した当初の姿をもっとも忠実に伝えているものは,①金色堂中央壇と考えられる。すなわち,この格狭間にはそれぞれ一羽の孔雀と草花一枝の打ち出し金具が鋲留めされているが,その表現の特徴のひとつはあたかも孔雀の一瞬の動作を写し取ったかのように躍動感に溢れ,一羽ごとに形姿を変えていることがある。それに対し,③,④,⑤,⑥になると,孔雀の形姿は側面を見せ,片脚を挙げて大きく羽ばたくもの一種類に固定化し,しかも隣り合う格狭間どうしの孔雀の姿は左右対称になるように整理され,①の孔雀のような写実性はなくなり,ひとつの文様として扱われ始めた傾向を見ることができる。この傾向はさらに時代が下るほど顕著になり,⑦や⑧などでは,ひとつの格狭間の中に2羽の向い合った孔雀が飾られ,いわゆる双鳥文様として扱われている。金色堂は,天治元年(1124)藤原清衡が建立した阿弥陀堂である。注目すべきことは,奈良時代以降しばしば阿弥陀浄土変に孔雀が表されていることである。すなわち,当麻曼荼羅をはじめ阿弥陀浄土変相図の宝池に孔雀などの瑞鳥が描かれているほか,天平2年(730)建立の興福寺五重塔の初層西方には阿弥陀浄土変の立体群像があり,その中に諸鳥と共に孔雀が飾られていた。『阿弥陀経』と『観無量寿経』によれば,浄土の宝池には孔雀や迦陵頻伽など六種の瑞鳥がいるという。したがって,金色堂の須弥壇の孔雀は阿弥陀浄土の宝池の孔雀であるといえよう。経文によれば,宝池は阿弥陀如来や諸菩薩の座す宝池の下に広がっている。金色堂の場合,須弥壇を宝池に見立てることにより壇の下方を宝池と見なし,そして壇の側面に宝池の瑞鳥の一種である孔雀が飾られたのであろう。孔雀文格狭間は浄土教の隆盛をみた平安後期に集中しており,しかも格狭間に飾られた鳥が孔雀や迦陵頻伽といった浄土に関連の深い鳥に限られていることから,孔雀文格狭間は平安後期に競って建立された阿弥陀堂建築において成立したものと推察されよう。それが次第に阿弥陀如来を安置した須弥壇に限らず,舎利壇や礼盤,あるいは宝塔などの格狭間の装飾にも応用されるようになったものと考えることができよう。-76 -
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