鹿島美術研究 年報第7号
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(5) 螺細八角須弥壇の設置堂宇おいて詳述した。迦陵頻伽は孔雀と同じく阿弥陀浄土の宝池にいる瑞鳥の一種で,阿弥陀如来像を安置した須弥壇の下方を池に見立てることで,壇の側面にある格狭間にそれらの鳥が飾られたのである。しかし,一旦格狭間に孔雀や迦陵頻伽をあしらう習慣が生まれると,様々な工芸品の格狭間に応用され,必ずしも阿弥陀如来の荘厳とは限らなくなる。次に,螺細八角須弥壇の八角形という形の意味である。八角円堂に見るように,木造建築の主流である我国では円形を表現するのにしばしば八角形が用いられている。以上の螺細八角須弥壇の図様の検討をまとめれば,①金剛界大日如来像を安置したことを意図した図像が見える,②八角形は円である,③壇の外周に曼荼羅の界線である金剛騰がある,となろう。これらの特徴は金剛界曼荼羅の成身会などの大円相に共通点が多く,螺細八角須弥壇はもともとは金剛界曼荼羅を立体的に表した掲磨曼荼羅の一部であったものと想定される。螺細八角須弥壇は,近年まで中尊寺の経蔵に置かれ本尊文殊五尊像をが,これが本来の姿でないことはこれまでの検討で明らかであろう。先述した螺細八角須弥壇の図様の特徴,すなわち金剛界大日如来像を安置し,しかも曼荼羅的要素を備えていることに注意しつつ,この壇の当初の設置堂宇を推定したい。12世紀の中尊寺の様子を記録した『吾妻鏡』に見える堂宇のなかで,上記の螺細八角須弥壇の図様の条件を満たしているものを探せぱ両界堂が挙げられよう。よれば両界堂は金色の木彫像によって構成される両界曼荼羅が祀られていたという。まさに螺細八角須弥壇が当初設置されるにふさわしい堂宇であると言えよう。両界堂について『吾妻鏡』以降の記録にはほとんど記されていない。しかし,は建武4年(1337)の中尊寺の大火以降には存在しなかったものと考えられ,螺細八角須弥壇は何らかの事情により移され,中尊寺の収蔵庫的な役割を持つ経蔵に設置されて今日に伝わったものと想定できる。上記の研究は「中尊寺金色孔雀格狭間試考」(サントリー美術館『論集』,平成元年),「中尊寺螺細八角須弥壇考」(『仏教芸術』190号,平成2年)にて発表した。-79 -していた

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