鹿島美術研究 年報第7号
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禎7年という歳は,それまでの絵事修業や,黄槃禅を通じての自己研鑽の上に,陳賢いる。陳賢の作例についても10点余りを掲げるのみにて,未紹介の作品を多く残している。筆者は,これまでの調査や売立目録などから59点の陳賢の作品について写真と作品データを集め,さらにその中から真筆と思われる34点も精選することができた。また隠元・木庵・道者などの黄槃僧の語録から,「欽台許居士」の名で陳賢のことを記した新史料を索しえた。これらをもとに,陳賢の人と経歴とを以下に述べるが,これまで不明瞭であった陳賢像の輪郭が,いくらか明らかになると思う。陳賢は福建省東甑の人で,十六羅漢図冊(メトロボリタン美術館)を描いた崇禎7年(1634)までの行歴は不明であるが,この歳以後の作品に,「安禅深処」,「紫雲」(開元寺),「仙跡精舎」,「九日山延福寺」などで作画したことを記し,落款印章に「仏弟子」,「半禿僧」,「野納」,「見筆墨身説法」などの語句を用いていることや,画題が観音や羅漢など仏画に限られていることなどから,これ以前に潮って黄架派の僧の寺院との関連ができていたと思われる。しかし禅僧として正式に受戒していたかは疑問で,隠元は語録の中で陳賢を常に欽台許居士と称しているし,また自らの落款印章で「仏弟子」,「半禿僧」,「野納」と称しているのも,むしろ在俗の仏教信者としての立場を表わしているように思われる。陳賢が黄架寺院を主たる作画活動の場としていたことは疑えないが,従来いわれているような“禅余画家陳賢”といった表現が適当であるかどうか疑問であり,陳賢の観音図の世俗臭も気にかかる。陳賢の最も早い作品である十六羅漢図冊には,すでに陳賢画の特徴あるスタイルが見え,これに先だつ付品と画歴があったことは確かであろう。しかし,陳賢が何処で誰に絵を学んだかは知りえないが,南宋画院の画家爾照の作品を菓した鐵拐図(大英博物館)は,彼の絵事習学の一端をうかがわせるものかも知れない。従って,この崇の作画活動が黄槃派の中でますます本格化しはじめた歳と考えられる。陳賢はこれ以降,崇禎9年(1636)に開元寺で観音図帖(万福寺)を,同16年(1643)春に石桐華で(画題未詳),秋に仙跡精舎で十八羅漢図巻(フリーア・ギャラリー)を,永暦元年(1647)12月に延福寺で列祖図冊(万福寺)を描いており,作画期間は21年間に及んでいる。またわが国に伝存している陳賢画の中で,明暦2年(1656)に木庵が着賛した観音図(泉屋博古館),翌三年の木庵賛観音図2幅(静嘉堂・白鶴美術館),同年に即非が-81

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