着賛した観音図2幅(平野家旧蔵・静嘉堂),万治3年(1660)の木庵賛羅漢図(斉藤家蔵)などは,作画年代は不詳ながら,ほぼこの頃に陳賢が長崎に送ってきたものと思われ,1666年頃までは生存年代を下げることができよう。陳賢の作品がわが国にもたらされるようになったのは,隠元の来日が契機になっている。陳賢が隠元に接したのは,史料の上からは永暦8年(1654),列祖図に序を請めて,東渡を前にした隠元を慶門の仙儀に訪れたときが最初であるが,両者の交渉はこれを潮るかも知れない。また隠元が東渡した後も,陳賢は自分の作品や書信を送り交渉を続けている。承応3年(1654)7月に長崎に着いた隠元は,その年の秋頃に陳賢から送られてきた観音図帖(万福寺)に題賛しており,これがわが国にもたらされた最初の陳賢の作品で,これを潮る作品の請来は確認できない。隠元が長崎を離れて普門寺に上った明暦元年(1655)8月以後に送られてきた陳賢画には,長崎にいた木庵と即非とが替って着賛したのであろう。ただ,延宝4年(1676)の木庵賛観音図(末吉氏旧蔵),同5年木庵羅漢図4幅(1幅は田島家蔵,他は所在不詳),宝永6年(1709)鉄心賛羅漢図(神戸市立博物館)の着賛年まで,陳賢の生存年代を下げることには問題がある。陳賢の年齢を記した史料はないが,『南山道者禅師語録』の記事に,延福寺金鶏橋の修復に際して,陳賢が菩薩像百幅を描いて諸有力檀信徒に送り費用の援助を乞うた折,同じく資金の援助をした息子の陳龍官について,「陳龍官ハ乃レ陳道人ノ乃郎ナリ,善能ク経紀ス,成ス可キ者ノ有ンハ,得ル所ノ利モ亦夕疲心シ津梁ヲ助成スガ如シ,語録一冊有リ」と記し,この息子の父である陳賢は,すでにかなりの高齢であったことが推測される。この延福寺で菩薩像百幅を描いた話が,同じく延福寺で列祖図を描いた永暦8年(1654)頃のこととすれば,これからさらに20年余り後まで陳賢が生存していたとは思えない。これから考えると,陳賢の作品活動は,崇禎7年(1634)から永暦14年(1660)頃までの27年間を中心に行われたといえる。つぎに,陳賢が主に作画活動を行っていた地域について考えてみたい。陳賢の作品で作画の場所を記すものは,「安禅深虞」(十六羅漢図冊),「紫雲」(観音図帖),「石桐華」(画題未詳),「仙跡精舎」(十八羅漢図巻),「九日山延福禅寺」(列祖図冊)の五つである。この中で具体的に地名や寺院名がわかるのは,紫雲,すなわち福建省泉州府域内の開元寺と,同じく泉州府南安縣の延福寺とである。また列祖図冊の序の中で,隠元は陳賢のことを,「温陵陳公」と称しており,温陵は泉州のことであ-82 -
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