るので,陳賢の主な活動地域は泉州であったと思われる。安禅深虞,仙跡精舎は禅寺の塔頭などを連想させるが,石桐華と同様具体的な地名は知りえなかった。その他,『黄槃和尚扶桑語録』の中に,三平の瑞像三十餘尊(列祖図のことか)を陳賢が描き取り,明暦元年(1655)に隠元に送り来ったことを記しているが,三平山とは唐代に義忠によって開かれた福建省滝州府滝浦縣の禅寺で,泉州とは慶門を中間にして南北の近い距離にある。以上のように,陳賢の行動範囲は,生地東甑を除けば,ほぼ泉州に限られ,しかも黄槃派の寺院が主なる作画場所であったといえる。最後に陳賢の交友関係を調べておきたい。黄槃僧の語録から,陳賢は隠元・木庵と交友関係があったことを知りうる。隠元とのつながりは,隠元の東渡以前に潮り,東波後も続いている。陳賢が隠元を深く尊崇していたことは,彼が隠元の頂相画を所持していた一事からも充分にうかがえる。隠元の法弟亘信とは,延福寺金鶏橋の修復に際し,陳賢が菩薩像百幅を描いてこれを援助したことや,亘信が彫成させた一山瑞像を陳賢が描写していることなどから,かなり密なものがあったと思われる。木庵との関係は,木庵が中国にいた時に始まるが,史料的には来日以後のものが多い。わが国にもたらされた陳賢画に,最も多く着賛しているのは木庵で,また陳覧の請めにより隠元像に着賛もしている。陳賢も泉州の人で,泉州開元寺を本寺とし,温陵の良素庵などにも住しているので,同じ泉州にいた陳賢との接触は充分に考えられる。陳賢の十八羅漢図巻に題賛している禁希文,友関係があった人達であろう。禁希文は明末頃の文人と思われるが,その経歴は知りえなかった。潜夫,泉州晋江縣の人で,有名な書家であり画家でもあった張瑞図を父とし,崇禎13山とは親交があり,隠元とも交渉があったようである。この張潜夫と陳賢との関係は注目すべきで,木庵と陳賢との交渉が中国において始っていたことを示唆するし,また張潜夫を通じて,張瑞図との関係をも推測させる。陳賢がどのような画家と接触があったか不明のなかで,張瑞図が絵画にも巧みで,静嘉堂文庫所歳の観音図が,どこか陳賢の描く観音図と図柄が似ていることも見逃せない。また張瑞図の書画の多くが,張潜夫・木庵・悦山のルートでわが国へもたらされていることは,陳賢画の舶載ルー年(1640)に進士となっている。黄槃僧と接することも多く,特に来日した木庵と悦泉州南安縣の人で,万暦35年(1607)に進士となっている。張張潜夫の三人も,陳賢との交83 _
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