鹿島美術研究 年報第7号
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トを考える上で参考になろう。一方,日本における陳賢画への着賛者とその点数とは,木庵14点,隠元6点,即非2点,鉄心1点,慧林1点,高泉1点,無賛6点である。木庵と隠元とがそのほとんどに着賛していることは,陳賢がある意図をもって自らの作品を両僧に宛て送っていたことを示し,日本人の趣好を知る商買の手によって舶載されてきたものはわずかではなかったかと思われる。陳賢に宛てた隠元の返信の中に,後世の伝燈録に,日本に黄槃禅が遠播した源には,自分やそれを助けた陳賢の功績が大であったことが記されるであろうと述べている。その陳賢の功績とは,まさに隠元・木庵のもとに描き送られた陳賢の作品をさしているのであろう。両師を敬す陳賢は,遊印「見筆墨身説法」にみられるように,自分の描き送った観音図や羅漢図が,日本における黄槃禅伝播の一助とならんことを願っていたのであろう。このように,陳賢が交渉をもち,多くの感化を受けた人々は,隠元・木庵・亘信・悦山などの黄槃僧をはじめ,同じ泉州の張潜夫・李佳畳・禁希文,そして張瑞図などの文人達にも及んでいたことを知りえた。以上,陳賢の作品と史料をもとに,彼の作画期間,活動地域,交友関係を中心に,陳賢の人と経歴とを綴ってみた。しかし陳賢の画風,作画内容,江戸時代の絵画への影靱等については稿を改めたい。附記・陳賢は諒で,俗姓は許氏,字を大広と称し,華山道人,華山隠,碧水,翠消亭,聰葵丙陀,希三,筈公などとも号した。遊印に見筆墨身説法,天然子,大安道人,五安子などを用いる。-84 -

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