⑥ 日本美術における「南洋」像の形成研究者:兵庫県立近代美術館研究報ール人形ダッコちゃん,オバケのQ太郎に登場するバケ食いオバケ,ちびくろサンボ,カルビスの黒人マークが相次いで姿を消した。黒人差別がその理由である。この問題に初めて火を付けたのはワシントン・ポスト紙(1988年7月22日)であり,批判を受けた日本側企業が商品回収,製造中止など迅速に対応したため,多くの日本人はそれらがなぜ黒人差別につながるのかを十分に自覚しないまま事態は収束された。問題となったキャラクターは大衆文化の表層に現われた図像に過ぎない。その深層には日本人が無意識のうちに築き継承してきた黒人観が存在している。この中でカルビスの黒人マークが最も長い歴史を持っていた。カルピス食品工業の創業は1917年,第一次世界大戦で窮乏していたヨーロッパの美術家を救済するためにドイツ,フランス,イタリアでポスターを募集した。第3位となったドイツのオットー・デュンケルの作品がやがて同社の登録商標なったことはよく知られている。問題はそれがなぜ黒人なのかというところにある。カルビスというとどちらかといえば大陸風の飲料水島海雲は遊牧民族の酸乳飲料からヒントを得たという)に黒人のイメージを託して販しようとした背景に当時の南洋ブームがあった。東洋でも西洋でもない南洋という地理的な認識は,に高まるのが1910年代であった。口火を切ったのは竹越輿三郎の「南国記」(1910年)である。ベストセラーとなったこの書物の豊富な図版とその構成は,いかなる南洋像が形成されたかを知る貴重な手掛りである。1914年になると日本はドイツ領だった南を占領,1919年以後委任伝統治領とした。現実の領土を南洋に獲得したことで,雄飛すべき新天地ー一原始状態を保った無尽蔵の宝庫(「実業之日本」1915年春季増刊南洋号の表現による)としての南洋像が日本人の意識の中に大きく育った。こうした広範な南洋プームが美術の領域にも影閻を及ぼさないはずがない。少なからぬ関心を南洋に示したと思われる二人の美術家のケースを次に見る。朝倉文夫は1911年の2月から9月にかけて南洋を旅行した。帰国直後の10月4日,1988年から89年にかけて,サンリオの人形サンボ・アンド・ハンナ,タカラのビニた1887年頃に成立したといわれる。しかし,庶民のレベルで南洋に対する関心が急激※ 木下之が「南洋時事」を著し85 -
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