東京美術学校で南洋から持ち帰った工芸品を陳列公開すると共に講演を行った。また,この年の第5回文展に「土人の顔<其ー〉」と「土人の顔<其二〉」を出品,後者は三等賞を得た。この時の講演の内容は1913年4月号,5月号の美術新報に発表した「南洋の工芸」に窺われるし,南洋旅行の全貌については後に朝倉自身が「航南瑣話」(1942年)という書物にまとめている。日本美術における南洋像の形成過程を探ってみようとする本研究のそもそもの端緒は,次のような朝倉の発言にあった。「巴里は御免だ。日本から巴里にゆく美術家は澤山ゐる。僕は巴里の美術は嫌ひなのだ。文明人の生活は不自然だ。あんな不自然のなものよりも自然な野蛮人から美を見出すことに興味を有ってゐるのだ。」(航南瑣話)野蛮な南洋を眺めている。一美術家としての朝倉は西洋彫刻の教育を受けてきたにも関わらずそこに違和感を覚え,むしろ南洋の文化に好意的な眼差しを向けている。文展への出品作品が二等賞と三等賞を交互に繰り返したことで,とうとう最後まで渡欧のチャンスを与えられなかった不運な彫刻家と朝倉は見なされてきた。日本の近代美術史では,美術家が渡欧したか否か,言い換えれば西洋文明と彼がどのように出会ったかが執拗に問われる。しかし,1911年における朝倉の発言,とりわけ一美術家としての態度表明は,西洋文明とその影響を受けた日本の美術家という図式には収り切れない問題をはらんでいる。もちろん「巴里の美術は嫌ひなの」はいつまでも巴里に行かせてもらえない不満の裏返しであったかもしれない。また,「自然な野蛮人から美を見出すことに興味を有ってゐるの」は極めて西洋的な関心であると了解したうえで,なおかつ朝倉のこの態度表現は20世紀初頭の日本人が抱いていた文明観を知る上で一考に価すると思うのだ。たとえば,東京美術学校の卒業に際して「進化」(1907年)という作品を制作したことも,文明と野蛮という問題の中で再考する必要があるだろう。朝倉が洋服を好まず和服で通したことや,洋風のアトリエに和風の住宅を接続させて住居(現在朝倉彫塑館)としたことなども彼の文明観と無関係ではないはずだ。西洋文明が行き結まったと感じ,非西洋文明,というよりも非文明世界に新たな方向を見出そうとした日本人はもちろん朝倉文夫ひとりではなかった。むしろこうした閉塞感は世紀末の西洋美術を特徴づけているものであり,それを少し遅れて1910年代の日本人美術家が共有したとまずは考えるべきだろう。朝倉は一言も触れないが,こうした問題意識を持った美術家にとってゴーギャンの生き方は大きな刺激となったはずだ。我が国へのゴーギャンの最初の紹介は,奇しくも竹越輿三郎の「南国記」が出日本人としての朝倉は文明の側に立ち,そこから86 _
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