版された1910年である。上田敏は次のような言葉でゴーギャンの紹介を始めた。「現代芸術の生命を豊富にしやうといふには,多少の蛮気が必要かと思って,あまり人の噂に上らない,ポオル・ゴオガンの事を述べる。」(「美」1910年4月号)1912年から13年にかけて早くもゴーギャンの「ノア・ノア」が翻訳された。それは,ゴーギャンの絵画というよりも西洋文明からの逃避という彼の生き方に対する関心の表れであった。小泉鉄によるドイツ語からの翻訳であったが,雑誌「白樺」に7回に亘って掲載された。京都の美術雑誌「美」に比べれば,はるかに多くの読者を得たことだろう。この「美」いう雑誌は京都市立絵画専門学校創設を機に発刊された。1910年は創刊2年目である。上田敏の紹介記事に続いて,翌1911年1月号に京都絵専で教鞭で執っていた中井宗太郎が「ポール・ゴーガン」という記事を寄せている。ゴーガンの紹介は京都から始まったのだ。中井やフランスから帰朝して間もない美術史家田中喜作を中心に,無名会,黒猫会,仮面会といった研究会が次々と生まれた。黒猫会の名がパリのカフェ,シャノワールに依っていることからもわかるとおり,当時の京都画壇はパリのカフェ文化に敏感に反応していた。朝倉文夫と共に注目したいもう一人の美術家とは土田麦倦である。麦倦は上に挙げた研究会のすべてに顔を出し,やがて国画創作協会結成(1918年)の中核となった。京都絵専の卒業制作であり文展初入選作であった「髪」(1911年)と,翌年の文展入選作「島の女」(1912年),続く「海女」(1913年)との間には,テーマの上でもスタイルの上でも飛躍がある。「島の女」は八丈島に,「海女」は三重県波切村に取材したものであり,いわゆる南洋ではないけれど,そこには南への志向をはっきりと認めることができる。発表当時すでに何人もの評者によってゴーギャンの影需ないしは模倣が指摘されている。この傾向は麦倦の周辺にいた画家_小野竹喬,野長瀬晩花,ルヲらもとして南方に目を向けたことは,ゴーギャンがフランスを離れてタヒチに向かったこととよく似た行動パターンであった。ただ,ゴーギャンに逸早く関心を寄せた彼らが洋画家ではなく日本画家であったことが興味深い。単純にゴーギャンの影響とは言い切れない問題意識を,ゴーギャンを受けとめた彼らの側が持っていた。要するに,洋画家と日本画家とではそれぞれどのような文化の上に立脚しているのか,その違いである。洋画家たちのように基本的に西洋文化に依存しようとせず,日本文化に依存しながら西洋文化に強烈な関心を抱き,していた。彼らが長い伝統を有する京都画壇の閉塞状況から脱け出よう87 -
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