鹿島美術研究 年報第7号
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フコトグラヒーそのため地球上の複数の文化を相対的にとらえることのできた一例が国画創作協会の画家たちであった。彼らが洋画でも日本画でもない国画という言葉を持ち出したことの意味を深く考えてみる必要がある。彼らの方法は朝倉文夫の生き方にとてもよく似ているのだ。日本の近代美術史を築こうとする時,東西文明の比較に終始するのではなく,いわゆる非文明的世界がどのように日本人の視野に取り込まれてくるか(ここでは南洋像の形成)を考慮に入れる必要がある。おそらく西洋文明から見た非文明という屈折を経て南洋にまつわる情報の多くは普及したのだろうが,方認識も無視することはできない。問題ぱ情報流入のチャンネルがいつ切り換えられたかにある。幕末の見世物ではしばしば異国風俗が採り上げられた。たとえば1855年浅草奥山で松本喜三郎が行った「生人形大蔵」に登場する穿胸国人や長脚国人は「山海経」_「和漢三才図会」系列の図像である。庶民のレベルで,新しい世界観がこうした古い世界観にとって代わり,古い図像を駆逐するためには,相応のメディアが必要であった。福沢諭吉の「西洋事情」(1866-70年)や内田正雄編「輿地誌略」「1870-77年)といった明治初年の地理書が果した役割は大きい。詳しく触れる余裕はないが,幕府派遣の留学生であった内田正雄はオランダより持ち帰った三千枚の「捉影画」(写真)を元に画家に挿絵を描かせた。川上冬崖,松田緑山,梅村翠山,亀山至ー,中丸精十郎らがこの仕事に携わっている。また,「西洋事情」や「西洋旅案内」(1867年)を元に仮名垣魯文が「西洋道中膝栗毛」(1870-77年)を著し,それに落合芳幾,三代広重,河鍋暁斎が挿絵を付けるという具合に,新しい世界観を反映した図像は急速に普及した。暁斎の挿画を見比べると,ある時点から日本人が自らの立場を文明の側に位置付けたことを示す図像(「西洋道中膝栗毛第12編」1873年と「万国地誌略」1874年における未開人の表現の違い)が登場する。先に問題にした朝倉文夫の発言,とりわけ一日本人としての態度表明に直接つながっていく表現である。新しい世界観を示す造形表現がどのように大衆化し,どのように政治的に利用されるに至るかを知ることが今後の課題として残った。日本の近代美術史を築くことは日本の近代史を知ることだと思うからだ。※ 近代以前の日本人の南-88 -

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