て非本質的な要素が放棄されていく。グリンバーグがその理論を形成した大戦直後においてモダニズム絵画の正系はキュビスムとシュルレアリスムであった。グリンバーグは形態論に着目することによって,とりあえずシュルレアリスムをフォーマリズムの系譜から切り離したうえで,キュビスムの後継者がフランスにではなく,大西洋を隔ててアメリカに出現したことを宣したのである。この意味において,抽象表現主義絵画の歴史的正統性が認証されたのであるが,そこに文化の盟主アメリカという隠されたイデオロギーもうかがえる。キュビスムをはじめとするモダニズム絵画と抽象表現主義絵画の形態論的類似性および展開の諸相はグリンバーグの著作および例えばグリンバーグ門下のフォーマリス卜,ウィリアム・ルービンの優れた論文『ジャクソン・ポロックと近代主義的伝統』等に詳しいが,グリンバーグの理論の卓越,あるいは異様さはこれにとどまらない。グリンバーグは絵画の平面化が未だ完遂されていないことを述べるとともに,自らがしたそのような絵画の創出へと参画するのである。グリーンバーグが求めた「最後の絵画」は,この後,60年代前半,ポスト・ペインタリー・アブストラクションの名の下に糾合されることとなる。ステイニング(たらしこみ)によって色彩と形態をさせるモーリス・ルイス,シェイプトカンバスを使用して画面の形態と描かれた形態を一致させるケネス・ノーランドらの登場によって絵画の平面化は究極の段階を迎えた。グリンバーグは多くの画家と親交を結んでいたが,その役割は大きく変化した。特に重要なのはポロックおよびポスト・ペインタリー・アブストラクションの画家たちとの関係であるが,前者に関してはグリンバーグ自身も自己の理論の確立を模索していた時期だったこともあり,影聘関係は双方向であった。グリンバーグはしばしば迷い,時にはポロックの作品から啓示を受けている。52年以後のポロックの具象への回帰に対しても最初は一定の評価を与えるほどであった。しかし理論が体系化され,その正当性に自身を深めたグリンバーグは,60年代以降,自らの求める絵画を実現させるために積極的に画家に干渉した。例えばルイスは彼との交流の中で自己の表現に目覚めた数少ない画家の一人である。彼はグリンバーグに誘われ,ノーランドとともに訪れたフランケンサラーのアトリエでの体験をもとに一連のヴェール絵画を創出した。またジュールズ・オリッキーはグリンバーグのアトリエ訪問の後,作風を大きく変化させた。しかし完全に平面化された絵画とはもはや展開の可能性のないデッド・エン-99 -
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