鹿島美術研究 年報第7号
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2.臨済宗の波及と造仏『栄尊年譜』によれば,神子栄尊は貞応2年(1223)円爾弁円と共に栄西の法弟栄朝に参禅する以前,建保5年(1217)に宇佐宮に詣で,その神託によって禅法を学ぶことになったという。しかし,栄尊が本格的に宇佐宮と関わりをもつようになるのは,寛元元年(1243)渡宋成就の礼に再び宇佐宮に詣で,八幡大神から「神師」(後に師を子に改める)の号を与えられたことによる。同年,栄尊はこの地では初めての禅院である円通寺を創建している。開基は,大宮司宇佐宿弥公仲であった。さらに宝治元年(1247)には,建久3年(1192)の回禄以来復興もままならぬ状態であった宇佐宮弥勒寺金堂の改造を企てている。また,この頃宇佐宮境内に自らの居住の寺院として妙楽寺(廃寺)を創建してもいる。このような栄尊による宇佐での活動は,同地方のみならず東九州に初めて禅宗の痕跡を記したものとして意義深い。現在円通寺には,開山神子栄尊の頂相の頭部のみの残欠が伝えられている。像内墨により建武4年(1337)に勧進比丘知改によって発願造立されたことがわかる。師の没後60年たっての造立であるが,角張った面相に落ち窪んだ眼窯,顔には小跛が写実的に刻まれ,師の晩年期の相を良く捉えたものといえる。栄尊の没後,円通寺には光隆寺(廃寺)・広化寺(廃寺)・永福寺・瑞泉寺などの末寺が開かれている。そのうち,光隆寺は栄尊の法孫で円通寺10世の在庵普在が宇佐公光を檀那に得て,永和2年(1376)に創建したものである。光隆寺の旧本尊で現在円通寺に安置される阿弥陀如来立像(像高98.6センチ)は,その鎌倉新様式による引き締まった体躯と鋭い衣文の的確な彫技は,永和2年の光隆寺創建時よりはるかに遡るものであり,あるいは栄尊在世当時の造立になるものかも知れない。広化寺は,現在「西山観音堂」として残っているが,同寺に伝わった聖観音坐像(像高99.5センチ)は,鋭い彫りの面相,写実的な衣文,奥行の深い側面観など鎌倉彫刻の充実した作風を見せ,これも13世紀中頃の造立であろう。宇佐市麻生の禅源寺は,円通寺と同じ寛元元年(1243)麻生氏康と宇佐公憲を開基として聖一国師が開いたと伝える。聖一の開山というのはやや信憑性に欠けるが,あるいはこれも国師とは関係の深かった栄尊の開山になるものかも知れない。禅源寺に伝わる釈迦如来坐像(像高82.2)は,面相に在地仏師の作を思わせる<せのある表情を示すものの,量感のある体躯に鋭い彫法の写実的な衣文を刻み,寛元元年の開山当時に近い鎌倉後半期の造像であろう。-103

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