鹿島美術研究 年報第7号
130/312

43.0)と南北朝期の十一面観音坐像(像高33.8)が伝わるほか,円通寺との関係は不高109.5)1躯が伝わっている。このうち,本尊の方は脇侍蓮台の墨書銘によって,明応6年(1497)円福寺12世住持雪章の代に「且那正秀」「勧進願主妙藤」らによって再3.東福寺派の発展と造仏このほか,円通寺の末寺であった瑞泉寺には鎌倉末期頃の銅造千手観音立像(像高明であるが,宇佐市矢部の長興寺(現大徳寺派)にも南北朝から室町初期頃の釈迦如来坐像(像高77.9)が伝来している。豊後高田市に所在する円福寺は,由緒書によれば,建治3年(1277)田原泰廣が絶崖宗卓に請うて創建,絶崖はその師大応国師(南浦紹明)を開祖となし自らは第二世となったと伝える。このことは,『本朝高僧伝』にも「卓京南薪山妙勝寺,豊後円福寺を開く。大応を奉り始祖となし,自らは第二世に居る。」(京北南禅寺沙門宗卓伝)とあり,かなり信憑性のあることといえる。当該地域への臨済宗大応派波及の喘矢である。現在円福寺には,本尊釈迦三尊像(中尊像高87.8)のほか,開山大応国師坐像(像興されたことがわかる。作者は「作州仏師明貞」であった。一方大応国師像の方は,福岡興徳寺の国師最晩年の頂相画に通ずる迫真的な顔貌表現,襟元のしのぎの立った刀法からは,国師の示寂した延慶元年(1308)からさほど降らぬ14世紀前半頃の造立と考えられる。円福寺の「由書並びに末寺書上」(大分県史料巻10)によれば,円福寺には数ヶ寺の末寺末庵があったことが知られる。そのうち,光厳庵(現光厳寺)は,建武年間(1334■)絶崖宗卓を開山第一祖として創建したと伝える。同寺の本尊十一面観音立像(像高88.3)は,その的確な肉取りと衣文などの冴えた彫技は秀逸であり,鎌倉後期の中央作になるものである。当時の円福寺を中心とした大応派の活動の中に,これだけの優作を造しうる文化的基盤が醸成されていたことになろうか。神子栄尊と絶崖宗卓,そしてその法弟達による宇佐宮および豊後高田周辺での活動が,その後当該地方全域に発展していった痕跡はない。しかし,両派の漸新な禅風が宇佐宮弥勒寺や六郷満山など天台宗を中心とした旧仏教の疲弊した状況の中に,初めて新時代の息吹きを吹き込むことになったであろうことは想像にかたくない。大分市に所在する万寿寺は,徳治元年(1306)豊後大友氏5代貞親が,当師の法弟で博多承天寺に住していた直翁智侃に懇請して創建した東福寺派の禅院で,-104-

元のページ  ../index.html#130

このブックを見る