鹿島美術研究 年報第7号
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先ず,在銘のものとしては,自聞正聡の開山になる安岐町実際寺の本尊釈迦三尊像がある。本像は,その中尊像底に「運慶御作五代孫法眼康俊再興之芙干時貞和三年十二月日」とあり,貞和3年(1347)に当時の慶派を代表する大仏師康俊の手になることがわかる。ただし,この銘文は貞直ちに首肯することはできないが,その切り込みの深い面相や,やや厚手でくせのある衣文などの特徴に,佐賀竜田寺の普賢延命菩薩像(正中3• 1326)や宮崎大光寺の文殊騎師像・四侍者像(貞和4• 1348)などに通じる作風が見られ,ほぼ康俊作とみることができよう。豊山正義の開山になる国東町万弘寺の宝冠釈迦如来坐像(像高65.0)は,その胎内銘により,文和3年(1354)当時の開基富来忠茂を大檀那に,「大仏師法眼尚和覚朝」によって造立されたことがわかる。この仏師覚朝については他にその作例を知らないが,ただ宇佐・国東地方の仏像で「覚」字を有する仏師の手になるものとして次の2躯がある。0阿弥陀如来坐像国東町千光寺像高43.5永仁2(1294) 大仏師播磨坊覚行0千手観音立像日出町蓮華寺像高89.3年記なし(14世紀前半)大仏師法眼覚明万弘寺像を含めたこれら3像については,その中央風にならいながらも,ややあくの強さを感じさせる作風からは,畿内仏師とくに慶派の流れをくむ仏師の手になるものと思われる。前出の康俊作とみられる実際寺釈迦如来像とともに,当地方の禅宗寺院における造仏と慶派仏師の関係を追及してみる必要があろう。その点に関連して,貞治年間(1362■)悟華智徹の開山になる武蔵町円明寺の本尊釈迦如来像(像高61.5)に注目しておきたい。無銘ではあるが,その作ぶりから14世紀中頃の造立とみられ,またその厚みのある面相や煩瑣な衣文表現などに実際寺像や万弘寺像に通ずる要素を見てとることができ,これも慶派の延長線上で捉えられるべき作例であろう。一方,以上のような畿内系仏師の作例に対して,明らかに在地仏師の手になることを予想させるものもある。安心院町金龍寺の本尊聖観音坐像(像高36.2)は,像底墨書銘により,至徳4年(1387)に宇佐郡深見庄西勝禅寺(廃寺)に造立されたことがわかる。像は,ー木造の彫眼像であり,作風的にも一見して在地仏師の作とわかる地方色の濃いものである。また,(1684)の修理の時に写されたもので,-106-

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