暦応3年(1340)密室正機の開山になる杵築市報恩寺の伝釈迦如来坐像(像高78.6)は,正当な寄木造になるものであるが,材に梱材を用いた眼を彫眼とするなど手法に古様な点が見られる。明徳2年(1391)豊山正義が開いた豊後高田市の安養寺本尊観音菩薩坐像(像高34.3)もまた一木造の彫眼像であり,いずれも旧様の伝統をひいた在地仏師の造像になるものと考えられる。以上,宇佐・国東における鎌倉末から南北朝期にわたる東福寺派臨済宗の発展と,その中での造仏の概況を眺めてきたが,この期の造仏が,大友配下の有力な武将達の開いた禅院に活動の場を求めて下向してきた慶派を中心とした畿内系仏師達によって担われたであろうこと,反面,それは旧来の伝統に根ざした在地仏師達の活動を促すことになったであろうことなどが指摘できよう。おわりに我国の彫刻史上,13世紀から14世紀と時代は,鎌倉前期における京都・奈良諸大寺の復興も一段落し,そこで活躍した慶派・院派・円派の各仏師達が地方の有力武将を頼って分散していった時期であり,その結果鎌倉新様式の造像技法が全国的レベルで普遍化していくことともなったのである。今後は,以上の調査成果を踏まえて,あるいはより詳細かつ広範な資料の検討・博捜を通して東九州における豊後大友氏および配下の武将達の禅宗の受容とそのもとでの造仏活動の展開の状況を明らかにしていきたい。107-
元のページ ../index.html#133