計らいで,東京帝室博物館のプロジェクトである古画模写事業に参加することとなった。この事業は,博物館側としては館蔵品の乏しさを補い,かつ古美術を保存する目的,一方の美術学校,日本青年絵画協会サイドとしては,青年画家の画業研修の目的で企図されたものであった。調査の結果判明した下記に掲げる模写作品から推測されることは,帝室博物館より模写対象作品の指示があり,その指示は,明治17年より4回って行われた,フェノロサ,天心等による関西地方の古社寺宝物調査の成果に基づくのではないかということである。但し,各画家めいめいに何処の何をという細かい指示が出されたのか否かはまだ不明であるし,上記の推測に関しても確たる根拠を見い出せないのだが,模写作品に現在国宝,重文に指定されているものが多く,またかなり損傷のひどいものを克明に写していること等から考えると,模写として研究,展示対象となる名品,失われる可能性の高い傷みの進行しているもの等が選ばれているといえるだろう。春草が明治28年から30年までに模写した作品は,醍醐寺の普賢延命像や,知恩院の徐熙作蓮図(伝於子明作,蓮池水禽図のこと)等5点(現東京国立博物館一字金輪像含む)であり,帝室博物館買上げの形で納品され,いずれも現存していることが確認できた。また春草はこの間,高野山泰雲院の依頼で,同院の焼失された佐々木高綱像を揮奄し,納めているが,調査の結果,その画像は明治44年の火災で既に失われていることが明らかとなった。脆弱な造形品の悲運を嘆かざるを得ない。その他,明治29年に伝徽宗皇帝作猫図,伝頼庵作鯉図等,宋元画,足利漢画6点を模写し,東京美術学校に納めている。これが帝室博物館の事業とどう関わるのか不明であるが,当時天心が博物館の学芸部長と,美術学校校長を兼任していたことを考えれば,それほど厳密に区別する必要はないかも知れない。さて,その6点の調査に於ては,わずかに上記した2点のみ現存することが確認できた。他の作品は明治年間にほとんど消失してしまったらしく,拝見出来なかった。現存する2点の鯉図の方は4枚の粗悪な紙を継ぎ合わせた上に描かれるなど,それほど模写に重きを置いていたとは思われないが,当時の様子を知る大切な資料であることにかわりはない。春草の古画模写は,明治30たが,この仕事が彼の画技,以後の画想の発達に少なからぬ影聾を及ぼしたことは,十分考慮されてしかるべきであろう。その他参考までに,東京国立博物館の御協力により明らかとなった,同時期模写事年1月14日,福岡孝子爵が所蔵していた一字金輪図の博物館納品をもって一応終了し-110
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