鹿島美術研究 年報第7号
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業参加作家(美術学校系のみ)の模写作品についても触れておきたい。横山大観は明治26年に卒業した後,27年には伊勢神官の奉讃団体神苑会の嘱託となり,奈良,高野山その他の古社寺ですでに模写に従事していたが,帝室博物館の依嘱による着手は28年からである。この年大観は,安楽寿院孔雀明王像や西教寺阿弥陀如来像など5点,翌29年には知恩院の阿弥陀三尊像1点,30年に伝雪舟筆四季山水図(四幅対)1点を模写し,帝室博物館に納めている。そのうち知恩院の一幅については帳にないとの解答を得たが,それ以外は現存している。その他奈良帝室博物館にも浄瑠寺蔵吉祥天像,禅林寺蔵阿弥陀三尊像を納めているという記録があるが確認できていない。下村観山,西郷孤月,本多天城,溝口宗文,天草神来のものは,観山,天城,宗文が各一幅ずつ担当した高野山有志八幡講の阿弥陀聖衆来迎図,観山一人の筆になる貞筆山水図,孤月には光明寺の二河白道図をはじめ,足利漢画,南宋院体山水画の模不動明王像を含む4点,さらに神来にも安楽寿院蔵普賢菩薩像など4点があり,台帳に記載されているのがわかったが,有無の確認,図様の確認が残されている。春草以外の美術学校卒業生の活動は大旨以上の通りであるが,その古社寺はほぼ全てフェノロサや天心の宝物調査社寺中に含まれており,彼らの調査と古画模写事業との関連を窺わせるものである。因みに「東京国立博物館百年史」によれば,明治28年から30年までの模写を通計すると,杜寺82,個人48を対象に,中国宋元画35点,日本画184点(仏を模写させているのである。さて春草は,この古画模写を終えた翌年からその成果をみせ始める。それは明治30年頃からさかんに描かれることになる歴史画の流行とも相侯って,大画面の中に遺憾なく発揮される。「枯華微笑」,「水鏡」,「維摩図」等の仏画,「聖賢(未完成)」,「王昭君」,「霊昭女」等の中国故事人物画等がそれである。また一方宋元画模写の成果は,上記の人物画中にも認められることはいうまでもないが,「白き猫」,「狗子」,「牡丹」,「紅葉鳩」等の花丼笥毛画に,一層発揮されているといえよう。春草は徽宗等の画帖画面形式と思われる花丼笥毛画を,堅物に改変させてはいるものの,部分的にトリミングしてみれば,余白の有効な活用,モティーフの布置の感覚等に,院体画研究の跡が認められる。アメリカに渡る37年までに認められる特徴は,以上のような古仏画,画132,大和絵11,水墨画30,狩野派5,琳派4'円山四条派,浮世絵4)合計219点写4点がある。天城には上記以外に,醍醐寺蔵文珠菩薩像など4点,宗文も醍醐寺蔵111-

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