宋元画吸収の過程を示すものであるが,それらの作品,特に仏画を含む歴史画からは,那辺に範を求むべきかを知った春草が,己れの知識,能力を駆使し,また古画,古典を研究して画想を練ったことが推察されるのである。各作品と,範となったと想定される古画の検討については,ここでは省略するが,一方で西洋絵画の技法を吸収しながら,あくまで日本,東洋的な美の感覚を表現しようとしているのがわかる。それは中期後半になっても,決して崩れることはなかった。もちろん西洋絵画の明るい色面構成,点描法,自由な視点の移動といった技法面のみならず,画題,描写対象の選定等に於て,少なからぬ影響を受けている。しかし,創造という意識が根底に働いていたと思われる。晩年,つまり代々木時代以降は,いっそうそれがはっきりしてくる。明治42年に描かれた重文「落葉」は,西洋カプレしたものと批判されはしたが,江戸琳派,鈴木其ーの「夏秋淫流図屏風」や俵屋宗理の「楓図屏風」等にみられる宇宙的な,永遠の空間描出を意図し始めたように思える。また,「月四題」に代表されるような余白の利用,モティーフのレイアウトの感覚も,抱ーや其ーの遺例に認められるものであり,一切の説明的な描写を廃し,余情,余韻を漂わせている。そして最後にあげられる特徴が,「黒き猫」に特に顕著な装飾化,抽象化への傾斜である。春草の晩年の作品が琳派とよく比較される所以もここに存する。こうして全体を概観してみると,春草の目指した新日本画,日本的なるものの美の創造は,最終的に,事物の抽象化を通して得られる永遠の美の創造であったように思われる。古代以来大和民族が,いかなる外来文化の影響を受けようとも,長年月をかけて自国のものに混和してしまうところの,その自国のもの,つまり事物の紋様化,装飾化,抽象化へのあくなき憧れ,執着が,美術院のだれより春草の中に見い出せると思うのである。-112 して日本的なる美の
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