鹿島美術研究 年報第7号
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⑬ 金銀泥絵の探求_ 「太田切」より宗達まで一一“研究者:静嘉堂文庫学芸員玉晶敏子研究報本研究は,日本における金銀泥下絵の出現と展開を東アジアを視野におさめ,細かい資料操作により辿ろうとする試みである。まず出発点である「太田切」について要を確認したのち,14世紀より17世紀初めまでの変遷を具体例を掲げて述べていくことにする。「倭漢朗詠抄」を書写した「太田切」は色替りの舶載の唐紙に金銀泥で下絵を施した書巻。現存する数種のなかでも静嘉堂本は二巻仕立ての巻子本で,景物画巻としても鑑賞できる好資料である。野馬・柳・鷺・鶴・茫•竹・梅など四季の区別は明瞭でないが,ゆったりとした空間に遠景・近景を意識しつつ,小さな花鳥画を描き込む。源兼行筆とされる「桂宮本万葉集」に比べ,図様が小さく,12世紀の散らし文に通じる要素があるとはいえ,なお落ちついたリズムに11世紀の感覚が窺われる。「太田切」「桂宮本万葉集」「蝶鳥下絵法華経」など,11世紀の金銀泥下絵の絵様の源流は,おそらく唐時代に西方から伝来し,中国の伝統文様と合流したシノ・イラニカ様式のパラダイス文様であろう。例えば開元23年(735)銘の「金銀平文琴」(正倉院蔵)の枠組中に描かれた高士とその背景の花樹・竹・飛鳥・草花の賑やかな楽園表現。これと,「太田切」断簡中の「妓女」の部分や「桂宮本万葉集」に描かれた竹叢の絵様とを比べれば,両者に同じ水脈が流れているのは明らかであろう。唐〜宋時代の中国で,楽園文様の金銀泥下絵の彩箋が制作されたかは不明である。ただ正倉院所蔵の唐代工芸品に金銀泥絵がよく用いられていること,彩箋ではないが8■12世紀の東アジアにおける経絵の流布,そして南宋の高宗が紹興5年(1135)から13年(1143)にかけて梁汝嘉に賜わった勅書(東京国立博物館蔵)に,鳳凰.麒麟・菊花の金銀泥下絵のある彩箋が使用されていることなどを考慮すれば,やはり11世紀の日本の金銀泥下絵料紙の原型となるような彩箋が唐〜宋時代に存在したとみるべきであろう。「文房四譜」(蘇易簡撰,北宋,薙煕3年,986序)の「紙譜」中に散見する「金花箋」「蛸金箋」「金鳳紙」などの語の意味も気になるところである。とはいえ,「太田切」をみるとペルシア=中国伝来の楽園文様がゆったりした空間に嬉遊し,風の動き,空気の流れが感じられる景物画的表現に転じている。それは当時の大和絵景物画の動向とも通じ合うものだったに(1) 景物画巻としての「太田切」-116-

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