鹿島美術研究 年報第7号
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楽の聾きを再現することに成功した作品ということができる。この全体構成の面から見ても本図が漠然と菩薩の演奏する音楽を概念的に想定していたのではなく,迎講の際に演奏された音楽の実態に強い関心をもった上で描かれたものであることが理解し得るのである。ところで,さらに高野山本を精査して見ると,菩薩の着衣に施された文様が一尊ごとにいずれも異なるものであることに気がつく。例えば観音菩薩の裳には蓮華の花弁が散らされているのに対して,勢至菩薩では大柄な団花文が裳に配される。その他の菩薩の裳にも上記二種と別種の文様がそれぞれ描かれている。これに関連して思い起こされるのは『日本往生極楽記』延暦寺僧春素伝である。ここには春素の夢中に現われた禅僧と童子が着していた白衣は「衣上有画,如重花片」という具合であったことが記されているのであるが,このように救済者について微細なイメージを重ねて人々が夢見ていたことも,当時流行していた迎講の実態と無関係ではあるまい。迎講儀式に用いられた菩薩の装束が華美であったことが多くの文献から読み取られることについては既に述べた通りである。また来迎図の構図構成上の問題として,現存阿弥陀聖衆来迎図には画中に往生者を描く場合とそれを描かない場合があることはよく知られている。このうち特に往生者が描かれる場合,その面貌を似絵風に極めて写実的に捉えている遺品が見られる。例えば新知恩院本ではそれを髭を蓄えた武者姿として描いているが,これと関連して(20)の平経高の迎講は注目されてよいであろう。即ち,この迎講は経高の自宅にて修されたものであるが,その際に彼は自身の肖像彫刻を舞台に設置して,あたかもそれに向かい来迎がなされるかのような演出を行なっているのである。この迎講の事例から往生者付きの来迎図が自己救済をあらかじめ眼前に示す目的で制作されたものである可能性が想定されてくる。従来,往生者の描かれた来迎図は九品来迎図との図様の相似から説話画的なものと解されたり,あるいは既に故人となった者の追善供養の目的で作られたものではないかと説明されることが多かったが,経高のように生前から自身の救われる様を演劇化して迎講を行なう場合があったことが考慮されるなら,この主張には幾ばくかの反省が求められるのではないだろうか。最後に来迎図以外の浄土教絵画と迎講が関連を持つ事例を二三紹介して,本報告を終えることとしたい。まず第一に,迎講儀式が巷に流行したことに起因して,迎講それ自体が絵画の主題124-

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