鹿島美術研究 年報第7号
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(1) 古代の葬送儀礼と音楽の関係については次の論考に詳しい。(2) 源豊宗氏「来迎の芸術」(仏教美術二号)となる事例があったことについて。保延二年三月二十三日供養の鳥羽勝光明院壁扉絵の場合がそれで『本朝続文粋』所収供養願文によれば「四面扉図絵極楽九品往生並迎接儀式」とある。別表中(11)(12)に示したように,本図制作の数年前には宗教的救済の象徴イメージが迎講という実際に修された儀式を比喩として語られていることから,この頃までに迎講は人々に共通の認識の対象として受け入れられていたことが分かり,それゆえに仏堂を装飾する壁扉画の主題ともなり得たのであろう。第二に迎講が流行するに連れ,その儀式形態に様々なヴァリエーションが生まれたのであるが,そのうちの一つ,(8)の迎講は五条河原で行なわれたものであったという。この土地は死者の埋葬所である鳥部野にごく近い。それゆえ,鳥部野と対岸を結ぶ五条大橋で迎講が修されたとこれを解すれば,それは後に中世に入り流行する二河白道図の図様構成を先取りするものであったかも知れない。これより以前,永久年間に没した安部為恒なる人物は西方に懸かった橋を渡って往生を遂げたとする夢告があったことが『拾遺往生伝』に述べられている。また後の,中世末期に制作された立山曼荼羅には布橋潅頂の場面として橋に白い布を渡してその上を歩いて死後の世界への旅を演出する儀式の様がしばしば描かれており,そこには二河白道図の図様との一層の近親性を感じることができるのである。もう一つ,迎講の特殊な形態として注目されるのは(18)の三浦三崎沖で修された迎講の場合である。これは海に浮かべた船を用いて阿弥陀聖衆の来迎を演出したものであったという。僧西念が四天王寺から難波の海へ,あるいは平維盛が熊野沖から,それぞれ実際に船に乗り極楽浄土への往生を目指した事例が知られるが,三浦三崎沖の迎もこれらと近い情緒的背景からなされたものであろうか。現存絵画作品としては金戒光明寺所蔵の地獄極楽図屏風の中に船によって極楽へと帰る阿弥陀聖衆の一行が描かれる場面を見ることができるは4)0阿弥陀聖衆の救済を幻想的に演出する迎講が人々に広く受け入れられ,様々な儀式形態をとりつつ発展したことを思う時,それが来迎図を初めとした種々の浄土教絵画に影縛を与えたであろうことが想像されるのである。【註】林屋辰三郎氏『中世芸能史の研究』第1部「呪能から芸能へ」-125-

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