2年(1333)埼玉県東秩父村浄蓮寺鐘の作者沙弥浄円や明徳3年(1392)千葉県清ことに室町時代の回国納経による経筒は武蔵はもとより遠く島根,石川,山形県等からも検出されており,よくその特色を表している。梵鐘は,各時代を通じてかなりの数が製作されたことが坪井良平氏等の研究から知られているが,現存する遺例は少ない。鎌倉時代の梵鐘は,当時畿内から関東に進出してきた物部・丹治姓の鋳物師によるものが多いが,南北朝時代頃を契機として,正澄寺鐘の作者武朴I塚田道禅のように地方鋳物師による作品が増加してくる傾向を指摘することが出来る。ロ・懸仏は,中世を通じてもっとも製作件数が多い。鎌倉時代後半にはじまり,南北朝,室町時代を通じて多様な作品が各地で製作・奉納されている。梵鐘と同じく紀年銘とともに作者名を明らかにするものが多く,これによってこの時期の鋳物師集団の活動の実態を追跡することが可能となる。他の雲版・磐・鉦鼓や仏像等の銘文も参照しながら,現在判明し得る中世武蔵の鋳物師集団とその動向を概述するとほぼ次のようなものとなる。*藤原守道とその一派百草松蓮寺経塚出土経筒,同3年(1165)東京・伝池上本門寺付近出土経筒および仁はり百草松蓮寺経塚から出土している永万元年(1165)経筒の作者にも比定される。建久8年(1197)埼玉・妻沼聖天堂の錫杖の作者藤原守家は守道の後裔と見なされる。また,建長5年(1253)府中市・善明寺鉄造阿弥陀如来坐像の作者藤原助近は,平沢寺経筒に守道とともにエ人として名を見せる助貞の後裔と考えられる。彼らは,鎌倉時代中頃から関東に進出して来た物部,丹治,広階姓の畿内出身の鋳物師集団の活躍に圧倒され姿を消して行くが,武蔵の初期鋳物師集団として注目される。玄小代鋳物師詳細は不明ながら,宝治3年(1249)埼玉・向徳寺阿弥陀三尊像が武州小代(現東松山市正代)で鋳造されていることから,同地に鋳物師の活動があったことが予測される。12世紀後半から13世紀中頃にかけて武蔵国内で活動した鋳物師集団と想定される。守道は久安4年(1148)の埼玉•平沢寺経筒を初見に,長寛元年(1163)日野市・安2年(1167)府中市・矢崎常光寺出土経筒[今亡]の作者としてその名を見せ,ゃ-139-
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