鹿島美術研究 年報第7号
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同17年(1410)埼玉・俵薬師鰐口,明応4年(1495)埼玉・真福寺鰐口等も道禅もし年(1564)から天正15年(1587)にかけての三通の渋江鋳物師宛免許状が所蔵されて年(1523)埼玉・大谷木観音堂鰐口[今亡]等に大工越何某と名乗る鋳物師が確認さ*塚田鋳物師室町時代初期,埼玉県大里郡寄居町塚田の地を本拠地とした鋳物師集団と見なされ,明徳3年(1392)千葉・清澄寺鐘の作者大工武州塚田道禅がその代表者と目される。彼は嘉慶元年(1387)旧岩槻平林寺鐘の作者大工沙弥道善と同一人と見なされ,また,撞座の意匠の共通性から大永元年(1521)追銘青梅・天寧寺鐘の作者にも比定される。このほか独特の銘の切り方や作風から,応永2年(1395)埼玉・塚田三嶋宮鰐口をはじめ同8年(1401)静岡・戸田諸口神社鰐口,同13年(1406)群馬・東福寺鰐口,くはその工房の作品と判定されるので,14世紀末から15世紀にわたって活動した鋳物師集団と考えられる。*渋江鋳物師室町時代後半,埼玉県岩槻市渋江の地に本拠をおいた鋳物師集団。埼玉・高麗聖天院蔵の応仁2年(1468)鬼窪郷久伊豆神社鰐口の作者大工渋江満五郎が初見で,ついで岩槻市大光院蔵の文明6年(1474)新方庄長宮香取社鰐口に大工渋江住泰次の名が知られる。このほか武州文書にも当地村国の鋳物師斎藤家に永禄7いることが見える。これらのことから,15世紀中頃から16世紀にわたって渋江の地に鋳物師集団の活動があったことが確認される。*小用(こよう)鋳物師室町時代後半から江戸時代にわたって埼玉県比企郡鳩山町小用(古名越用)の地で活動した鋳物師集団。新潟県国上寺蔵の長禄2年(1458)河崎山王鰐口の作者越生郷越住重弘を初見に,寛正2年(1461)埼玉・蓮華院鰐口,文明4年(1475)埼玉・中山薬師懸仏,大永3れる。蓮華院鰐口には越松本と見え,松本姓を名乗っていたらしいが,江戸時代には宮崎,清水姓に名が代わり,明治初期まで鋳物師の活動をしていたことが知られる。140-

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