鹿島美術研究 年報第7号
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3.木の葉たに色つく程はある物を形見とも都のにしにのこらなん行かたしらぬ松の尾のくも時のまもみはやとは>や面影に引きかへさる、墾をはやめて表裏にそれぞれ「松に雲」,「駒」を詠み込んだ歌を書き込んでいるわけであるが,その際,送り相手の児のいる「松尾寺」と「松の尾」をもかけるしゃれた恋歌となっている。このように画中に描かれたものを詠み込む場合,それが季節や名所の景物を描いたいわゆる物画である必要はない。例えその扇絵が「陶淵明」といった漠画系の主題であっても和歌が詠まれることはあったし(『草根集』宝徳元年),反対に源氏絵を描いた扇絵にも漢詩が詠まれること(『半陶文集』一,二,『黙雲薬』,『梅花無尽蔵』二)はあったのである。いまひとつは古歌を書く場合である。『実隆公記』文明15年(1483)7月9日条には「御扇被下之,当座依仰古歌予染筆賜之了」といった記述が見られる。天皇の仰せにより古歌を染筆した扇を拝領したということである。おそらく実隆が諸方から染筆を依頼された扇には,自らの詠歌よりも古歌が書かれることの方が多かったであろう。例えば豊原統秋が越前に下る直前,扇5本に染筆を依頼した書状(永正元年5月12日付け)が『実隆公記』の紙背文書に残されている。この5本の扇のうち,「すみ絵の枯野雪」の扇には歌道執心の若衆に贈るため「御詠歌」を所望しているが,他の「泥絵」の扇については「一首つ、なに、ても可被遊候」となっている。おそらく扇の絵にあった古歌を書き入れたのであろう。能書であり,古歌に評しい実隆などは最適任者であったのであろう。このような扇にどのような古歌が書かれたかという記述は『実隆公記』にも,ほとんど見出せない。ただ,文亀3年(1503)5月11日条には室町殿より「御扇歌」を「画図色絵六枚」に書くよう仰せがあった事が,そして翌12日条には6首の歌が,記されている。これなどは直接に扇に和歌を書き込むのではなく,扇絵と色紙の和歌を屏風などに貼り,賞するためのものであろう。六首の和歌は次の通りである。1.よしさらはちるまてはみし山桜花のさかりを面影にして(続古今125)2.なきぬへき夕の空を郭公またれんとてやつれなかるらん(続後撰175)149-

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