鹿島美術研究 年報第7号
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想は,「祭礼草紙」(前田育徳会蔵)や「月次祭礼図模本」(東京国立博物館蔵)に見られる祭礼の種々の風流と共通するものである。図様の方では,本来は和歌と関係しなかったと考えられるもの,例えば「唐船図」(高津古文化会館蔵)の扇面といったものが組み込まれている事を考えると,この作品には扇絵の様々な図様を取り込み,和歌と組み合せていた一面もあったと考えられよう。並木氏が指摘されているように,諸本の間で同図様の絵に異なった和歌が添えられているという事実は先に文献により導きだした,あらゆる主題のものに和歌が組み合わされることがあったということ,必ずしもひとつの絵とひとつの和歌が結びついたわけではないということを示してくれよう。その一方で,ある特定の和歌と結びつき成立し,それが継承されてく図様もある。ここでは後に「武蔵野図」として屏風にしばしば描かれた図様を取り上げたい。この図様はの草紙」では,「ゆくすえは空もひとつのむさし野に草の原よりいつる月影」(『新古今和歌集』),または「むさし野は月の入るへき山もなし草より出て草にこそいれ」(『玉造物語』)といった和歌を添えて描かれている。秋草の原に大きく月を描くといったこの図様は,まさしく先の2首の和歌をイメージ化したものであろう。希世霊彦(1403■1488)の『村庵薬』には「武蔵野図」の扇面の賛として「天低平野潤四顧更無山月出是何処幽花乱草間」という五言絶句が見出され,このころ15世紀半ばには,既に武蔵野図として後の図様とほぼ同一の物が成立していたことがわかる。また,この漢詩賛は先の和歌,特に後者のそれを漢詩に翻案したものであり,鑑賞者も,この図様を見れば,すなわちこの和歌を思い浮かべたことが窺われるのである。以上述べてきたように,室町時代の扇絵のみを取り上げても,それは様々な形で和歌とともに鑑貨されていたと考えられる。従来,中近世の絵画は主に,和歌などの文学からの脱却という側面から捉えられることが多かったか,当時の人々にとっては,必ずしもそうではなかったことがわかるのである。いわゆる「景物画」と分類される和画系扇面が最近かなりの数見出され,これらの作品が平安時代以来の景物画の伝統を引き,おそらくは和歌とともに鑑賞される事が多かったと推測される。しかし遺品には和歌賛をもつ扇は未だ見出されない。また,これらの扇絵と「扇の草紙」と図様の一致する物もほとんど見出されていない。しかし,いわゆる季節や名所の景物を描いた扇絵は,人々に直ちに1首や2首の和歌を思い浮かべさせたであろう。それらを思い浮かべることで扇絵の世界はより広がったと考えられる。151-

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