鹿島美術研究 年報第7号
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れた表現性は,「木陰(下絵)」の人物の輪郭線や崖の描写において,力強くがっしりとした形態を生み出している。こうした特質は,大正時代に描かれた荻祁の他の下絵素描においても認められ,たとえば,「千鳥ケ淵(下絵)」(大正3年),「波切風景(下絵)」(大正3-9年),「箱根塔の澤(下絵)」(大正7年)など数多く指摘できる。さて次に,荻邦の昭和時代の下絵を観察してみると,昭和初期の「漢間(下絵)」(昭和2年)や「高尾の女(下絵)」(昭和3年)などは,洗練された数多くの線描がみずみずしい生命力を輝かしていて,本画に勝るとも劣らぬ魅力をもっている。しかし,昭和10年代の「栗(下絵)」(昭和10年),「田植(下絵)」,「神鳩(下絵)」(昭和13年),「寒汀宿雁(下絵)」(昭和14年),「御塩殿(下絵)」(昭和19年)などの下絵を考察すると,大正期の大下絵がもつ表現の力強さは後退して,西洋絵画のエスキースにしばしば見てとれる予備作としての性格が強められ,それ目体が一定水準の作品的価値をもつものではなくなっていることに気づかされる。つまり,本画を制作するための,いわば副次的産物でしかないというわけである。このことは,荻邦の代表作と評価される「祇園の雨」(昭和28年)の下絵類において,最も顕著に見てとることができよう。「祇園の雨」は,祇園白川の町並みを薄墨を使って描いた情緒あふれる作品であり,家々の屋根や板塀などに見られる繊細な線描,あるいはまた,雨風を受けて揺れる柳の葉など,数ある荻邦の作品中でも,洗練の極致を示す1点である。荻邦は,吉井勇の「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流る、」という歌を脳裏に想い描きながら,京情緒の表現に渾身の力を込めたようである。ところで,この「祇園の雨」の大下絵を見ると,既述の大正期の下絵とは異なって,鉛筆で家並や人物がおおまかに描かれているだけで,ほとんどモティーフの位置を定めるための構図の下描きといった風である。「祇園の雨」を完成させるために,荻邦はこの大下絵をつくる前に,『寓生帖』(昭和28年)を持ち歩いて,祇園白川の町並みを,さまざまに研究している。前記の吉井勇の歌も,そこに書き込まれていて,この主題に賭ける画家の気迫の凄さを思い知らされる。しかし,それら数多くのスケッチ類や大下絵は,あくまで本画の構想の覚え書きというべきもので,大正期の大下絵のように,一個の絵画作品としての完成度や独自の価値をもつものではない。要するに,荻邦は,大正時代初期から昭和中期へ向かうにつれて,大下絵そのものの役割,あるいはその性格をすっかり変えてしまったようである。このことは,さまざまなスケッチ帖においても,あるていど跡づけることができよう。たとえば,『窺生画集』(大正3年)に描かれた「清水」の風164

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