鹿島美術研究 年報第7号
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景スケッチ,『風景窺生集』(大正3年)に見られる「川上不動の瀧」など三重各地の風景スケッチ,さらに『南島窺生』(大正4年)における種々の「波切風景」のスケッチなど,いずれも力の籠ったスケッチ類で,それ自体で鑑賞に耐える作品が幾枚も綴じ込まれている。ところが,昭和のスケッチ帖になると,典型的に予備習作的な性格が濃くなって,構想のメモ以上のものは見られなくなるのである。要するに,荻邦の昭和期の制作過程を段階的に跡づけてみると,まず最初に,いまだ隅々まで明確ではないが,あるていどまとまりのある構想のイメージが形づくられ,次にそのイメージが構図やモティーフの決定によってかなり明確化され,続いて完成作の予備習作としての大下絵の制作へと向かい,当初の構想のさまざまな修正がなされた後に,最終的に大下絵に基づいて,本画が制作されるのである。「祇園の雨」では,本画の制作過程で,細部のさまざまな箇所が決定されており,画家の表現活動は本画の段階において最も十全に展開され,完成へと進むのである。こうした例は,たとえば狩野芳崖の明治期の大作「悲母観音図」(明治21年)の本画と数多くの下絵類との関係と基本的には同じであって,それは大局的に見て,粉本の役割を引き継いだものといえよう。ところが,荻邦の大正期の制作過程を作品に従って考えてみると,やはり同様の制作段階が認められるにしても,表現活動が最も力強く行われるのが,完成作である本画ではなく,しばしばその前段階の大下絵においてであることに気づかされる。つまり,いわゆる造形的な制作活動が,大下絵の段階で完結し,その大下絵を下敷きにて,いわばく写し〉,あるいはく模写〉に近い行為がなされ,本画が仕上げられる場合がしばしば認められるのである。その場合,画家の表現意欲は本画にはあまり反映されず,もっぱら大下絵の段階で燃焼し尽くされた,と推察できる。<写し〉に近い筆の動きによって,輪郭線や彩色などにおいては,筆触の激しい痕跡を残す大下絵の生き生きとした運動感が消されてしまう場合がしばしばあったのである。こうした事態は,もともと工芸的な性格の強い日本画の性格から半ばは必然的に生じるものであるが,注目すべきは,荻邦の場合に,なぜ大正期の大下絵の段階で,予備習作の域を越えて,気迫の籠った表現活動が遂行されたのかということであろう。大正時代には,西洋の芸術思想,とりわけドラクロワらのロマン派やゴッホ,ゴーギャンらの後期印象派の芸術観が,日本画界に多大な影縛を与えており,それが大正期の「内面の表出」としての芸術観に結実して,油彩画や水彩素描を描くのと同様の時代の狩野派のさまざまな-165-

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