い内区と幅のせまい円周状の外区を設ける手法も明らかに漢式鏡が参考とされていよう。このような初期隋唐鏡の文様のあり方は,鏡の文様の自律的な発展過程とその継承性が途切れる状況が発生したことをうかがわせる。初期の隋唐鏡4鏡式に共通する現象として,各鏡式の初現型式が,技術的にレベルの高いものではなかったことが挙げられる。最古のものとなる四神十二支鏡I式は,文様の鋳出しも稚拙で,鏡胎も偏平かつ薄いもので,技術的にも極めて粗雑なものと言わざるを得ない。しかし,以後のII式からIII式に至る過程では,鋳造技術・文様表現ともに長足の進歩を遂げている。これは明らかに技術が回復してゆく過程を示しており,4■6世紀における銅鏡生産の衰退が隋唐代に至ってほぼ元の水準にまで回復したことは確実である。但し,古代における技術というものの継承性という観点から見れば,一旦完全に衰退し切った技術の回復が,その衰退し切った技術そのものの枠組みの中で自律的に行なわれたとは考えられず,当時の青銅器生産の中心であり,高度な技術水準を保持していた中国北方の仏像•仏具の生産との密接な関連が想定されよう。特に両者に共通するものとして,峨型鋳物の技術は重要である。銅鏡の生産は,後漢・三国時代と隋唐時代のそれぞれの金工品の中心とも言える存在であったが,その中間の南北朝時代には全く衰退しており,文様的にも技術的にも両者をつなぐような存在ではあり得なかった。しかも隋唐代における銅鏡生産技術の水準の高さは,一度衰退した技術がその技術の枠内で再度振興したものと促えることが難かしいほどのものであり,他の銅器生産からの技術移入を考えなければ理解は不可能であろう。仏像•仏具の生産は,南北朝代には北朝に圧倒的に片寄っていた事が確実であり,一方初期隋唐鏡の分布が中国北方に片寄ることとはよく符合している。これら銅鏡の生産もまた中国北方が中心であったことが予想され,両者の関連がうかがえる。また,初期隋唐鏡の文様は大半が北朝の墓誌と共通しており,葡萄唐草文も宝相華文も,シルクロードを通じてまず中国北方に流入した文様であった。一方,後期の漢式鏡は,神獣鏡・画像鏡をはじめとして,その製作の中心が中国南方にあったことが確実であり,その衰退は単に銅鏡のみに止まらず,貨幣やその他の青銅器も含めた中国南方の青銅器生産全体の衰退と軌を一にしていることも事実であ(6) 金工史的に見た銅鏡生産(5) 技術の断絶-178-
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