る。これには代替日常容器としての古越磁の存在,採算の合う銅鉱山の開発が行なわれなかったことによる銅不足などがかかわっていたことであろう。従って,後期の漢式鏡と初期の隋唐鏡の両者はその製作地の中心にも地域的な差違があり,両者のつながりが稀薄であることもむしろ当然と言うことができよう。但し,復活した初期隋唐鏡の文様は,仮にその技術の移転先が仏教系の製作品の技術であったとしても,仏教的なものとは一切関係がなく,四神思想・十二支思想も含めて,中国在来の道教系統の思想と密接に結びつくものであった。銘文もまた同様である。このことは,中国においては,日常の姿見としての鏡,ものを写し出す機能を持つものとしての鏡は,中国人にとってはその発想においても道教的なものと結びつけてしか理解できないものであったことを示している。そのような思想性こそが,中国の古代の銅鏡に一貫して付与されていた性格であると言えよう。鏡の文様がそのような思想性を不完全ながらも脱却しはじめるのは,8世紀盛唐以後のことである。179-
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