鹿島美術研究 年報第7号
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⑮ ルーベンス作「平和と戦争」と「戦争の惨禍」をめぐって研究者:国立西洋美術館研究員中村俊春研究報告:芸術家ルーベンスの生涯は祖国フランドルの政治情勢と密接に結びついていた。8年に及ぶイタリア滞在を終えて,1608年10月に故郷アントウェルペンに戻ったルーベンスは幸いにも比較的に安定した政治状況の中で芸術活動を開始することができた。というのも,翌年の1609年には,スペイン領南ネーデルラント(フランドル)と,スペインからの独立を宣言した。プロテスタントの信仰を奉じるネードルラント連邦共和国(オランダ)との間に,ひとまず12年休戦条約が結ばれたからである(同年にルーベンスはネーデルラント大公アルブレヒトと大公妃イザベラの宮廷画家に任命された)。しかし,1621年この休戦条約の期限が切れるとともに,再び政治的,軍事的緊張が高まることとなった。その年にはまた,アルブレヒト大公が逝去し,イザベラ大公妃による南ネーデルラントの単独統治が始まった。南北に分裂したネーデルラントの講和の確立を目指して,ルーベンスが外交政治の舞台に登場してくるのはこの時期のことである。やがて1627年からは,外交官としてのルーベンスの活動はネーデルラントの枠組みを越えて国際的なものとなった。ネーデルラントの和平の確立のためには,スペインとイギリス,両大国の講和条約の締結が必須であると考えられたからである。国境を越えた大芸術家としての名声を生かして,自らスペインとイギリスの宮廷に出向いて和平のための折衝を行なったルーベンスの尽力は,16.30年の両国の和平成立という華々しい成果をもたらした。しかし,その成功にもかかわらず,ヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争の終結(ミュンスターの講和,1648年)は,ついにルーベンスの生前に訪れることはなかった。は実質的に終了する。しかし政治の場からは身を引きながらも,戦争と平和の問題に対するルーベンスの省察は晩年の十年間にいよいよ深まりをみせ,いくつかの注目すべき芸術作品を生み出したと言えるであろう。その中でもとりわけ,1629年から1630年のロンドン滞在中に描かれ,イギリス王チャールズー世に贈られた「平和と戦争」(ロンドン,ナショナル・ギャラリー)および,トスカーナ大公フェルディナンド・デ・メディチのために描かれ,1638年にフィレンツェに送られた「戦争の惨禍」(フィレンツェ,ピッティ宮)は,公的な性格の寓意画でありながらも,戦争の悲惨,平和1633年12月のイザベラ大公妃の逝去にともない,ルーベンスの外交官としての活動-180-

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