ており,踏み込んだ比較検討はまだほとんど行われていない。もっとも,これらの作例は単に数量が多いのみならず,検討に必要な基本的データも,様々な制約がある為に揃ってはいない。各々の大量の画面を有する作品群を調査してゆくのは困難な作業である。さて,上記リストのなかで,二条城二之丸御殿と大徳寺本坊大方丈に関しては,これまでにも観察の機会をもってきている。今回の助成金を得て,名古屋城上洛殿ならびに本丸表書院障壁画の全体を数次にわたって詳しく調査し,写真他の資料を大量に得ることができたのは大きな収穫であった。名古屋城に現存する障壁画資料は,全部で62面を数えるが,調査しえたのは,このうち杉戸絵66面,天井板絵331面を除く265面である。なかでも,探幽が手掛けた上洛殿の上段之間から一之間,二之間を経て三之間にいたる間の襖絵58面は,現存遺品のなかで水墨における探幽様式を示す最初の作例として,本研究にとっても最も重要なもののひとつである。今回はガラスケース越しではなく観察できたので,多くのマチェールに関するノートをとることができた。たとえば,上洛殿三之間の「花鳥図」襖では,草々たる筆致で描かれた柳樹や蓮の傍らの白‘鷺は,その羽根一本一本の中央を走る筋が,胡粉による盛り上げとなっていて,柳樹や蓮の極めて実体性の乏しい表現とははっきり区別されている。名古屋城本丸表書院の障壁画制作は元和元年までに完成したとみられるが,元和元年には探幽は14歳なので,探幽自身が責任ある立場で制作に参加したとは思えない。しかしながら,探幽も表書院の障壁画を見ていたにちがいないし,狩野派としても―条城二之丸御殿に約10年先行する重大な事業であったことにかわりはない。はじめに述べたように,探幽に先行する狩野派の状況を示してくれる貴重な資料として,探幽研究にとっても見逃せない作品群といえるのである。特に,表書院の上段之間から三之間にいたる四室を飾っていた金碧濃彩の襖絵28面については,筆者問題,後年の補修による画面の変更など,複雑な問題がのこされている。探幽の父,孝信が参加しているかどうかという問題も念頭において,細部を子細に観察した。また,他にも,制作時期は不明なものの,中年期の作と思われる徳禅寺の水墨障壁画64面についても調査を行い,データ収集と写真資料を新たに得た。徳禅寺方丈画は,南側三室に,礼之間「竹虎図」18面,中之間「竹虎雲龍図」24面(2面は除く),檀郡之間「梅滝図」18面を擁している。中之間北側中央四面の右端,龍の頭部の下方に「法-186
元のページ ../index.html#212