鹿島美術研究 年報第7号
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眼探幽図之」と署名がみられる。大徳寺本坊大方丈画よりは下るが,40歳代の作かとみられる。この他,理性院,二条城二之丸御殿,聖衆来迎寺,玉林院等についても資料収集を行った。障壁画作例以外にも,徳川美術館寄託の寄合書き十二幅対,東京国立博物館蔵「帝鑑図」屏風,清涼寺蔵「花鳥図」屏風等,采女時代から30歳代にかけての作品を中心に調査を行い,売立目録に記載された膨大な数量の作品,同じく数多い探幽縮図の検討も少しずつ進めている。次に,今回資料収集が飛躍的に進んだ障壁画作品を中心として資料を検討し,はじめに述べたように探幽様式成立の事情とその本質を把握するために,これら障壁画作品を桃山時代からの連続的展開の中に位置づけることを試みた。その際,室内空間を意味付け,演出する障壁画の機能という点を分析の指標としてこれらの作例を検討することによって,探幽様式成立の過程がある程度後付けうる。それは,思ったよりも長い時間をかけて,それまでの課題に対する解答の提出というかたちで進行したと思われる。さて,このようにして探幽作品の検討から探幽様式を考えると同時に,探幽周辺の画家の作品との比較もまた重要である。この点については,探幽の参画がみとめられない知思院画が比較材料としてあげられる。以上は略述するにとどめたが,今回の調査研究の内容は現在学術博士論文の一部としてまとめつつある。尚,探幽の50,60歳代の作風の検討にあたっては,上述した前半期と逆に,屏風絵,掛幅画,和画系の作品等が有効な材料となってくる。これは単に作例が多いという事情によるのではないようである。この問題については,まだ資料収集も充分ではないので,今後も継続して考えてゆきたい。近世絵画史におよんだ探幽の影縛という点についても,以上に述べてきた検討の蓄積の上に導き出されてゆくと考える。-187-

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