ところで相伝の次第については既に多くのことが明らかにされている。西山勝月上人は西山松尾寺に住した勝月房慶政(-1268)で若くして入宋したことが知られる。南宋嘉定十年(1217)に宋に在り(高山寺旧蔵波斯文文書端書),建保七年(1219)一月にば帰朝している(宝生院蔵続本朝往生伝奥書)。本図はこのときの請来になると推測される。相伝の第二,ー音院法印済助(-1275)は洞院摂政殿こと九条教実の三男であり,相伝の第三,報恩院禅定殿下こと九粂忠教(-1332)は済助の兄,九条忠家の長男である。慶政は九条教実の臨終にあたり導師を勤めており,両者に親交のあったことが窺われる。また第二,第三の所有者には血縁関係が認められる。相伝の第四,定空庵主については未詳であり,相伝の第五,定山祖禅(-1374)は臨済宗聖一派の僧だが相伝の第六,浄阿との関係は明らかでない。なお金蓮寺は時宗四条派の祖,浄阿真観(-1341)の建立になり,金連寺の住持は代々浄阿の号を継いでいる。誤状の浄阿に付された「金蓮寺二代」は別箪とみられ,後代に註されたものと推測される。さて上述のように譲状の相伝がおよそ跡づけられ,本図が現在金蓮寺の所蔵になることは譲状の信憑性を高めており,本図が慶政の請来になることは疑いないと考えられる。一方,本図の伝承筆者,喩法師は喩弥陀思浄(-1137)で浄土行の作善として阿弥陀像を描いたことが知られている。その伝記は思浄と同時代の張九成の撰した喩弥陀塔図2譲状金蓮寺-189-
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